日本近世美術と日蓮宗 ― 信徒から多くの芸術家輩出(1/2ページ)
京都美術工芸大学長 河野元昭氏
篤いキリスト教信仰者であった内村鑑三さえ、独創性と独立心を愛して止まなかった日蓮――その日蓮が編み出した法華宗、今の呼び方で言えば日蓮宗は、偶像や聖像に対して冷淡であった。日蓮は礼拝すべき最も重要な対象として、「南無妙法蓮華経」という七文字を中心とする文字曼荼羅本尊と、それのみの題目本尊を創出したのである。
日蓮は辛苦惨憺の末にみずから確立した法華経世界を表現し、礼拝の対象とするために、画像ではなく、文字だけの本尊を選択したのである。それは眼に心地よいポリクロームではなく、凛としたモノクロームの本尊であった。しかも本尊として一般的な3次元の彫像ではなく、2次元の掛幅であった。日蓮が独自に感得した法華経のシャングリラは、文字曼荼羅や題目本尊によって最も的確に視覚化されたのである。
もちろん日蓮も、彫像を否定したわけではなかった。それどころか、生涯にわたって釈迦立像を持念仏としていた。『大聖人御葬送日記』により確認されるとのことである。それを認めた上でなお、彫像や画像を絶対視しない思想が、日蓮には具わっていたように思われてならない。
イコノクラスムは、キリスト・マリア・聖人図像の礼拝を禁じ、これを破壊する運動で、8世紀以降ビザンティン帝国で起こった。したがって偶像破壊運動と訳されることが一般的だが、もしこれを広く偶像否定主義と考えるならば、日蓮にはイコノクラスム的志向があったというべきであろう。実証は難しく、日蓮宗寺院を訪ねたときの直感に過ぎないのだが、奈良の華厳宗や法相宗、あるいは京都の浄土宗や真言宗の寺院と比べ、安置される仏像の美術的価値において、やや及ばないところがあるというのが、偽らざる感想だからである。
この問題を考えるとき、最も直接的関係を有する「遺文」は、『観心本尊抄』であろう。しかしいくらこれを読んでみても、日蓮は本門の本尊、久遠実成の仏を語って、つまり形而上的な本尊を説いて、それを造形化した仏像についてはまったく触れていない。曼荼羅の構成については匂わすところがあるけれども、直接的ではない。もちろん、多くの経典が同様であるものの、日蓮の場合には特に指摘しておきたいと思う。
簡潔なる文字曼荼羅は、華やかな絵曼荼羅や宝塔絵曼荼羅へと展開していく。布教という使命を負った弟子たちが考え出した「方便」であり、文字通りの「譬喩」だったのだろう。文字曼荼羅や題目本尊を最高の本尊と見なして、彫像であれ画像であれ、イメージをその下位に置こうとする観念が明らかに働いている。そしてそれは、日蓮に端を発する思想であったにちがいない。
ところがここに不思議な現象がある。中世から近世にかけて、日本美術史上、重要な役割を果たした流派、すぐれた作品を遺した芸術家に、日蓮宗の信徒が多かったという事実である。まず挙げるべきは狩野派である。その始祖正信は日蓮宗の信者であった。墓は京都・妙覚寺にあり、『扶桑名画伝』には、その実成院過去帳が引かれている。本法寺開山日親、かの鍋冠り日親の像を描いたという『等伯画説』の一条も注目されよう。その後、狩野派は元信、松栄、永徳、光信と受け継がれ、時の支配者に寄り添うようにして発展したが、桑名で客死した光信を除いて、彼らの墓はすべて妙覚寺にある。徳川幕府の成立とともに、狩野派は探幽を中心として江戸へ本拠を移したため、これを江戸狩野と呼んでいるが、もちろん彼らも法華信徒であって、その墓は東京池上・本門寺にある。
狩野永徳と覇を競ったのが、長谷川派を興した長谷川等伯である。等伯は能登・七尾の畠山家家臣・奥村家に生を享けたが、染物業を営む長谷川家に養われたらしい。この長谷川家が日蓮宗であったらしく、等伯もその家庭環境のなかで、熱心な法華信徒となったと推定される。能登において日蓮宗関係の仕事に精を出した等伯は、30歳のころ京都に出ると、本法寺を本拠に大活躍を始める。本法寺関係の作品に限れば、「日尭上人像」や「大涅槃図」が名高く、先の『等伯画説』は日通上人による等伯の言説の記録、中国画論のコピーから離脱したわが国最初の画論として、何ものにも換えがたき価値を誇っている。