小さな光を肯定する祈り ― 絶望の中、背を押してくれる(1/2ページ)
ノンフィクション作家 石井光太氏
ノンフィクションは、事件や災害や戦争など過酷な現場が舞台になることが少なくない。書き手としては、そこに足を踏み入れて、起きている出来事を目にするのだが、見渡すかぎり闇に閉ざされたような暗い現実というのも多々ある。
「神や仏なんていないんだ。祈っても助けてくれやしない」
悲劇の現場では、こうした声をよく聞く。どん底に突き落とされた人々は、どうしても神や仏に見捨てられたと思いがちなのである。
しかし、彼らが永遠に神仏に絶望しているかといえばそうではない。そういう人々にかぎって、あることをきっかけに神仏に深く傾倒することがある。一度神仏の不在を嘆き、絶望し、怒りを示し、それでも小さな光を見いだして手を合わせるようになるのだ。
話を抽象化させても意味がないので、具体的な例を挙げたい。次の話は、かつてネパールのハンセン病の物乞いを取材した時のことである。
その男性の体には10代でハンセン病の症状があらわれて迫害され、ヒマラヤの山中を長い間差別を受けながら転々とし、30歳ぐらいの頃に町にやってきて物乞いとなった。毎日カトマンズのチベット寺院の前にすわって小銭をもらうだけの日々で、話し相手は物乞いをする中で知り合った同じハンセン病の老人ただ一人だった。
彼はヒンズー教徒だったが、神を信じていなかった。これまでさんざん祈ったのに、病気が治ることも、人々の迫害もなくなることはなく、祈りなど何の意味もないと考えるようになったのだ。
町に来て10年ほどしたある日、唯一の話し相手である老人が亡くなってしまった。体調を崩したかと思うと、2日後にころりと死んだのだ。彼はそれから来る日も来る日も一人ぼっちで過ごさなければならなくなった。愚痴をこぼす相手も、ケンカをする相手もいない。寺で目が合うのは、数日前からウロウロしている野良犬だけだ。彼は次第に孤独の中で自殺を考えるようになった。
「もう死んでしまおう」
寺の前でそう思っていた時、目の前を歩く野良犬を雑貨屋の息子が呼ぶ声が聞こえた。耳に入ってきたその犬の名前は、亡くなった老人のあだ名と同じだった。
その瞬間、彼は「あの犬は老人の生まれ変わりにちがいない」と思い、自殺を思いとどまった。それからは、毎日物乞いで稼いだお金でその犬に餌をあげるのが楽しみとなった。
――神が、自分と老人を再会させてくれたのだ。
彼はそう考えるようになり、それ以来熱心なヒンズー教徒になり、一日の終わりにはかならず寺院で神に祈りを捧げるようになった。
差別と孤独の闇の中で、ハンセン病の男性が見いだした唯一の光が野良犬だった。祈ることによって、彼は神が老人を野良犬に生まれ変わらせて再会させてくれたと信じることができるようになったのだろう。つまり、祈りが希望を支えてくれたのだ。
このように悲劇の闇に閉ざされたような状況の中で、人が己の心を支えるためにふと祈りをはじめることがある。日本のノンフィクションの現場でも同じだ。東日本大震災の取材の体験から例を示したい。
東日本大震災が発生し、被災地には遺体安置所が設置された。遺体安置所とは、被災地で見つかった遺体が集められ、遺族が身元確認をするところである。