小さな光を肯定する祈り ― 絶望の中、背を押してくれる(2/2ページ)
ノンフィクション作家 石井光太氏
Aさんは震災以来、兄Bさんの遺体が見つかっていなかった。親族の中には神頼みとばかりにお寺に御参りに行く者もいたが、彼は宗教に頼ったところで見つかるわけがないと思って行こうともしなかった。
1カ月がたった頃、被災地でBさんの遺体が発見され、ダンプカーの荷台に載せられて遺体安置所に運ばれてきた。遺体は腐敗しており、骨が外れて下顎がズレていた。まるで津波に押し流された苦しみをそのまま表しているかのような形相だった。
やがて、Aさんが親族とともに身元確認にやってきた。Aさんは兄の無残な死に顔を見て言葉を失って立ちすくんだ。そんな時、職員がそっと歩み寄って、外れていた顎をはめ直して口を閉めて言った。
「こうしてみると、Bさん笑ってるみたいですね。きっと家族と会えてお葬式をしてもらえるのがうれしいんでしょうね」
Aさんはそれを聞いて安心感に包まれた。そして涙を流しながら、「本当だ、兄貴がうれしそうに笑ってる。見つけるのが遅れてごめんな、早くお骨にしていただいて家に帰ろうな」と呼びかけた。
それ以来、Aさんは立派な仏壇を買って、兄の遺骨に毎日手を合わせるようになった。そうしていれば、天国の兄が笑ってくれているように思えてならなかったからだという。
冷え切った遺体安置所に並べられた無数の遺体。その光景は、まさに絶望一色に塗りつぶされていた。
だが、AさんはBさんの顎の骨をはめてもらったことで「Bさんが喜んで笑ってる」と思うようになった。そしてそこに光を見いだし、仏壇を買って毎日手を合わせるようになった。それは絶望の闇の中を一歩一歩前に向かって歩いていく作業だったのだろう。
悲劇の現場に立つ時、私は時折こう思う。
真っ暗闇の絶望の中で人間は生きていけるほど強くない。だからこそ、他人にとっては何でもない些細なことに「小さな光」を見つけ出し、それを足場にして一歩ずつ前に進んで生きていこうとするのではないか。そして神仏はその人が光として信じようとしているものをそっと肯定してくれるのではないか、と。
神や仏は、たしかに人々が祈ったからと言って悲劇から救い出してくれるわけではない。だが、人々が暗闇の中に「小さな光」を見いだした時、それを静かに認めて背を押してくれるのだ。まるで、犬は老人の生まれ変わりなんだよ、とか、Bさんは笑っているんだよ、と語りかけるように。
たぶん、これはかならずしも悲劇の渦中にいる人々の話だけではないのだろう。私たちもまた気がつかないところで、身の周りにある何でもないものに「小さな光」を見いだして生きている。それらは決して宗教と呼べるものではないかもしれない。だが、人々が祈りを捧げれば、かならず神仏はそれを肯定してくれる。
祈りは、日常の何でもないことを「小さな光」として闇を照らしてくれる。そう考えれば、祈りはどんなに世界を豊かにするものなのだろう。
取材を終えて悲劇の現場から日常に帰って来た時、日常のありふれた物を見回しながら、私はたびたびそんなことを思うのである。