スピリチュアリティーは伝統宗教を駆逐するのか(2/2ページ)
北海道大大学院准教授 岡本亮輔氏
文化人類学者の門田岳久氏は「浅い宗教体験」という面白い議論を展開している(『巡礼ツーリズムの民族誌』森話社、2013年)。門田氏が調査したのは、佐渡島からバスで行く四国遍路ツアーだ。参加者には高齢者が多く、基本的には信仰熱心な人々だ。だが、門田氏によれば、彼らは巡礼を通じて宗教的に強度のある体験をするわけでもないし、それを求めているわけでもない。ツアー参加者が語るエピソードには、巡礼のお蔭で足が良くなった、亡父の幻を見た、先祖のことを思ったといったものが多い。巡礼のエピソードとしては、ありふれた体験ばかりなのである。
筆者が調査研究しているスペインのサンティアゴ・デ・コンポステラ巡礼や日本でのパワースポットめぐりでも、同様の現象が見られる。参加者たちは、誰もがするような出来事を巡礼で起きた大切な体験として語る。自然とのふれあいや他者との助け合いの重要性などだ。言ってしまえば、聖地巡礼をしなくとも、たとえばスポーツや農作業を通して得られるような体験なのである。
しかし、門田氏がこれらを「浅い」と表現するのは、深い本格的な宗教体験と対比して批判するためではない。そうではなくて、現代宗教は浅い体験しか提供できないような場所に位置づけられており、受容者も、そもそも深く強烈な体験を求めていないというのである。現代の人々はサプリのような形で宗教を手軽に摂取し、それなりの気づきや洞察が得られれば十分なのである。
こうした状況は、伝統宗教に属す人々からすれば不満だろう。本来は、宗教は救済や生き方・死に方の根幹に関わるものだ。それらに結びつかない巡礼や寺社めぐりは娯楽であり、宗教のつまみ食いに過ぎないと。しかし、宗教のつまみ食いをやめさせ、伝統宗教の教義や儀礼を誰もがそのまま受容する状況に戻すのは難しい。テレビ視聴を力道山の時代に戻そうとするのと同じことだ。近代社会とは、個人の主体性や意思を尊重する社会だ。制度や組織の思惑に抗して、自分自身で選択することが作法となっている。宗教だけがその作法をやめさせることはできないし、やめさせようとすれば、ますます宗教と一般社会の距離は広がるだろう。
とはいえ、筆者は、伝統宗教が残存する余地はもうないと言いたいのではない。むしろ逆だ。宗教のつまみ食いが広がったことで、伝統宗教の役割と責任はさらに大きくなったと考える。前述のように、イベントとしてであれ、浅いものであれ、聖なるものに接したいという欲求は引き続き存在する。だが、個々人が実践するスピリチュアリティーは、専門家によってガイドされることがない。スピリチュアルな実践を通じて聖なるものに触れたとしても、それを統一された体系の中に位置づけたり、さらなる深みと強さを持った次元があることを知る術がないのである。
筆者は、ここに伝統宗教が現代で果たすべき重要な役割があると考える。繰り返しになるが、個々人が自己流で聖なるものにアクセスするスピリチュアリティーに対して、伝統宗教は、聖なるものとの接し方の技法や、そこで得られた体験の解釈を長い歴史を通じて蓄積してきた。巡礼で得られた気づきや体験が俯瞰的に見た場合にどのような意味を持ち、さらにその先にいかなる体験があるかを示唆することができるはずである。
しかし、その場合も、伝統的な教義や実践を唯一真正なものとして大上段に振りかざすのでは、現代の人々には伝わりにくい。細分化し多様化した欲求に個別に応答しながら、スピリチュアリティーを伝統宗教の世界へとつなげなければならない。伝統宗教と新興のスピリチュアリティーの双方に通じた仲介者が求められていると思われる。そうした仲介者が現れることで、伝統宗教とスピリチュアリティーは対立するものではなくなる。スピリチュアリティーを入り口に、伝統宗教へと触れるようになる場が生まれるはずである。