戒をめぐり日本仏教に望むこと ― 寺院の実情に沿った戒制度を(1/2ページ)
「サンギーティの会」事務局長 加藤悦子氏
筆者は地元の京都を基盤に、仏教国際交流の活動を行っている在家者である。国籍・宗派を問わず多くの僧侶から話を聞くことで、かえって日本仏教の魅力と特殊性に気づくようになった。日本仏教は、特に戒制度が特殊である。日本が他国での習慣をそのまま見習うべきとは思わない。しかし日本仏教における戒のあり方には、現実に即した形で、いくつか考えるべき点がある。
仏式の葬儀では、導師が故人への授戒を行うが、最近、授戒に付随する戒名が問題視される場合があるようだ。戒名をつける意味がわからない、それにお布施を払いたくないという声が少なくない。戒名は不要だと主張したり、生前に戒名を自分でつけたいと希望する人が増えているように見える。
儀礼性に偏っている仏式の葬儀への反発が、戒名に対する疑問として現れてきたのだろうか。戒の意義を僧侶が説き直すこと、そして葬儀に伴う問題を見直していこうという声が寺院界の内側からあがってくることを願う。
そもそも仏教における戒とは、原則的には生きている者が受けるべきもので、修行生活の基本であるといえよう。少なくとも日本以外の仏教国では、このような考え方が一般的のように思われる。
それらの国々で戒を重んじる文化が成立した背景には、輪廻転生の霊魂観が密接に関係しており、その観念は日本より強いようだ。
人は「業」と呼ばれる生前の行為によって、死後に六道のどこかに転生するという「六道輪廻」の教えである。業と輪廻の関係性は絶対的で、変えることはできない。けれども人間に生まれることは修行の機会を得る稀有のチャンスと考え、修行する者は瞑想などを実践しつつ戒を保つことが肝要とされる。戒を保つことは魂に善なる方向を植え付け、業をコントロールすることにつながり、生まれ変わり死に変わり、やがて輪廻を超えようとする己のいのち(魂)の質を高めることになる。
これに対して日本の仏教は特異性をもっている。先に述べたような戒・業・輪廻の三つの関係性があまり自覚されていない。日本人にとっての人と死後の世界の関係は、「この世」「あの世」という二分割が通常であろう。そして、お盆に見られるように、霊魂はあの世とこの世を往き来するという往復型の霊魂観がある。これは仏教輸入以前からの、民族固有のものと言ってよい。一方で、人は死後に転生するという感覚も合わせもっており、多層的な霊魂観があるといえる。
また、日本では100年を超える追善供養が行われる。漢字文化圏の仏教では、儒教の影響から先祖供養に重きを置くことは共通だが、日本以外の国では、三回忌までが一般的である。しかし日本では手厚い供養により、先祖の霊を非常に身近に感じる文化があり、家庭内の「死後の住まい」とも言うべき仏壇を通して「死者と生者の交流」が続いていく。
このような、固有の霊魂観の影響が強かったためか、戒を遵守することで死後の往き先が細分化されるという観念は、日本には育たなかったと思える。
この他、日本で戒が重視されない要因には、中世以降に民間社会に圧倒的に広まった浄土教、特に浄土真宗の影響が大きくあった。そして、日本仏教の歴史が個人の救済でなく護国仏教としてスタートしたこと、厳格な具足戒を採用していた時期が短く、平安初期に天台宗が大乗戒を採用したことで、日本仏教の戒が実質的に転換したことなどがあり、早い時期から戒が形骸化した。
死後の授戒が一般化したのは江戸時代のことである。享保20(1735)年頃成立した『宗門檀那請合之掟』には、「死後死骸に頭剃刀を与え戒名を授ける事」とある。この作法は曹洞宗の儀礼が起源だが、現在では、臨済宗・真言宗・天台宗・浄土宗でも同じような儀式が行われている。