ブッダガヤ、目覚める「仏教聖地」 ― 問い直されるあり方(2/2ページ)
国立民族学博物館外来研究員 前島訓子氏
インド独立以降、ブッダガヤは「仏教聖地」として大きな変化を遂げていくことになる。ヒンドゥー教徒が所有していた大塔は、ビハール州政府の所有物となり、1949年にブッダガヤ寺院法の施行によって、その下で管理されることになった。この法律の下で、仏教徒にも管理の権限が付与されたのである。56年には、新生インド政府が国をあげて仏教2500年祝祭を催し、国内外の仏教徒や国賓を招待した。ブッダジャヤンティ(生誕祭)が開催された際には、初代首相ジャワハルラル・ネルーが、同地に国際仏教社会の建設を謳い、各国に仏教寺院の建設を呼びかけている。呼びかけに呼応する形で、タイや日本をはじめ、様々な国や地域の仏教寺院の建設が進み始め、今やその数は55カ寺を超える。
また、大塔や金剛宝座、菩提樹の周囲では80年以降、様々な国や地域の仏教徒によってそれぞれの国や地域の仏教儀礼が行われ始める。2000年以降、毎日のように100人を超える規模の仏教儀礼が11月から2月にかけて行われている。異なる民族や文化的、社会的背景を持った人々が訪れ、互いの国の言葉、仕方で祈りを捧げている。
一度は忘れられた地と化していたブッダガヤは、英領期の考古学的調査を経て、次第に宗教的な意味をも取り戻し、1956年を転換点としながら「仏教聖地」としての色彩を帯びてきた。やがて揺るぎない地位を築き、「仏教聖地」としての「まなざし」が向けられるようになるのである。
インドにおける「仏教聖地」は、そのあり方を変化させてきた。私たちは、「仏教聖地」としての変化の過程において、遺跡やその周辺をめぐり様々な思い、利害、そして戦略が交錯する様を見いだすことができる。英領期のダルマパーラの運動や、92年に生じた新仏教徒による大塔返還運動のように、大塔を中心に「仏教聖地」がどうあるべきか、どういう「聖地」が望ましいのかという問題が問われている。
「聖地」のあり方を問い、それに働きかけるのは仏教徒だけではない。忘れてはならないのは、ブッダガヤに生活する人々の多くはヒンドゥー教徒やイスラム教徒だということである。彼らもまた様々な立場から「聖地」のあり方を問い直し始めている。
大塔をめぐる仏教徒による大塔奪還を求める運動や、2002年の世界遺産登録に伴う大塔周囲の開発計画等をきっかけに、彼らは、今日のブッダガヤが、自分たちや自分たちの先祖との関わりなくして存在しうるものかと問いかける。ブッダは、実のところ私たちの祖先であるスジャータがいたから悟りを開きえたのではないか。大塔を守ってきたのは、代々からこの土地に住む我が祖先と私たちではないのか、と。地元の人々は、自身の「生」や「記憶」を紡ぎ上げながら「聖地」のあり方を問い直している。
確かにブッダガヤは揺るぎない「仏教聖地」として登場してきたが、それと同時に、異なる立場の人々(仏教徒やヒンドゥー教徒、巡礼者や観光客、研究者等)によって、様々な「まなざし」が向けられており、多様な争点を生起させてきたのだ。その意味で、「仏教聖地」のあり方は前もって固定したものではなく、その都度の争点をめぐって立ち上がる妥協や折り合いの過程に見いだすことができるだろう。
グローバル化が進む中、宗教絡みの紛争が一向に衰えない世界において、異なる他者といかに共存しうるのかが改めて問われている。長い時を経ながら「仏教聖地」として築き上げられていくプロセスが示唆に富むのは、そこにそれぞれの利害や思惑を持った諸勢力が、立場を異にしながらも妥協し折り合いをつけていく中で、「聖地」という場所のあり方に接近していく実際的な可能性が見られるからである。「仏教聖地」ブッダガヤで現に見られる動きは、まさしく、どのように他者(たち)と向き合い共存しうるかという今日的課題を、地域固有の文脈で捉え直す具体的なたたき台の一つになるに違いない。