ブッダガヤ、目覚める「仏教聖地」 ― 問い直されるあり方(1/2ページ)
国立民族学博物館外来研究員 前島訓子氏
インドにおいて国内外の旅行者を惹きつけて止まない場所の一つに「仏教聖地」がある。インド北部地域のガンジス河流域には、ブッダ(釈迦)と関わりのある地が点在し、中でも、その生涯と最も深く関わる地は「仏教聖地」と呼ばれている。特に、誕生の地(ネパールのルンビニー)、悟りの地(ブッダガヤ)、初めて説法をした地(サルナート)、涅槃の地(クシナガラ)は、仏教四大聖地と称されている。この四大聖地の中でもブッダガヤは、仏教最大の聖地として知られ、外国人もよく訪れる。
ブッダガヤには、ブッダの悟りを記念して建立されたとされる50メートルを超える大塔(大菩提寺/マハーボーディー寺院)や金剛宝座、菩提樹がある。2002年に世界遺産に登録され、国内外の仏教巡礼者や観光客が訪れる地となっている。その数は年々増加の一途をたどっているが、今のように人々が押し寄せるようになるのは、インドが独立する1947年以降、とりわけこの地に各国の仏教寺院が建てられ始める56年以降のことなのである。
ブッダガヤをはじめとした「仏教聖地」が、人々の関心を惹きつけたのが比較的近年だという事実は、インドにおける仏教の歴史とも関わる。インドには「仏教空白の時代」と称される時代がある。13世紀頃になるとインドから仏教が姿を消し、時の王や有力者からの寄進、仏教教団の保護の下、繁栄の過程で各地に建立された仏教建造物の多くは、経済的基盤を失った教団内部の弱体と、イスラム教徒の侵略に伴う破壊、さらには自然災害を被り、風雨にさらされる中で、「仏教聖地」は忘れられた地と化し、遺棄されることになったのである。
こうした仏教の栄華を象徴する遺跡に光が当てられるのは英領期のことである。19世紀になると英国考古学調査局による各地での調査が進み、仏教遺跡の発掘が行われた。ブッダガヤでは大塔の大規模な修復が行われ、この修復が今日の大塔の原型を築くものとなっている。
ただし、ブッダと関わりのある場所が最初から特定されていたわけではない。ブッダ誕生の地(ルンビニー)に関しては、初期の探査段階ではいくつもの候補地があり、ブッダが幼少期を過ごしたとされる地(カピラヴァストゥ)に関してもインド側とネパール側でその位置が論争になっていた。要するに、すでにインドの大地に埋もれ、忘れられていた地は、考古学的調査が進む中で「仏教聖地」として位置の確認が進んでいくのである。
しかし、位置の特定によって即座に、信仰上意味を持った場所として、内外の仏教徒に注目されたわけではない。ブッダガヤが単なる歴史的遺跡ではなく、仏教徒にとって神聖な地として改めて再認識されることとなったのは19世紀も後半のことである。
当時、ブッダガヤの大塔は、ヒンドゥー教のシヴァ派の僧院の院長、マハントが所有していた。1891年にブッダガヤを訪れたスリランカの仏教徒、アナガーリカ・ダルマパーラが、ブッダをヴィシュヌ神の9番目の化身と見なし、ヒンドゥー教の寺院であることを主張するヒンドゥー教徒から、大塔の返還を求めて立ち上がった。ダルマパーラを駆り立てたのは、大塔が仏教徒にとって聖なる場所以外のなにものでもないという思いと、現状を仏教徒が誰も問題にしてこなかった現実を目の当たりにしたからだった。ダルマパーラは、同年にマハーボーディー・ソサイエティ(大菩提会)を設立し、世界の仏教徒に協力を呼びかけ、日本にも支援を求めて来日している。だが、その願いはすぐに叶えられたわけではなく、インド独立以後にブッダガヤ内外で起きた変化を待たなければならなかった。