今こそ菩提僊那の継承を ― 新しい座像、東大寺で公開(1/2ページ)
ミティラー美術館館長 長谷川時夫氏
日本に初めて来たとされるインド人で仏教僧の菩提僊那は、日印交流の先駆者として知られる。
天皇、皇后両陛下が、2年前に53年ぶりのインド公式訪問をされた。大統領主催の官邸での晩餐会で天皇陛下は菩提僊那について次のように述べられた。「貴国と我が国とは地理的に離れ、古い時代には両国の間で人々の交流はほとんどなかったように考えられます。しかし、貴国で成立した仏教は6世紀には朝鮮半島の百済から我が国に伝えられ、8世紀には奈良の都には幾つもの寺院が建立され、仏教に対する信仰は盛んになりました。8世紀には、はるばるインドから日本を訪れた僧菩提僊那が、孝謙天皇、聖武上皇、光明皇太后の見守る中で、奈良の大仏の開眼供養に開眼導師を務めたことが知られています。この時に大仏のお目を入れるために使われた筆は今なお正倉院の宝物の中に伝えられています」(宮内庁ホームページより)
菩提僊那について時代をさかのぼる記録は多くは残っていない。菩提僊那が滞在した大安寺(奈良市)で亡くなって10年後の770年、菩提僊那像の制作にあたっての弟子の修栄による讃『南天竺婆羅門僧正碑并序』があり、その行状が後代に伝えられた。その中に、菩提僊那が『華厳経』を読誦し、呪術に精通していたこと、阿弥陀浄土の信仰も持ち、また、如意輪観音をはじめとする密教の八大菩薩に対する信仰が深かったなどの記述も見いだされる。
説話集には菩提僊那が太宰府から平城京を目指して、難波の津へ到着した時、行基上人が僧100人を率いて迎えたというような交流が記されている。
当時の日本では書物を通してしか仏教に触れられなかった時代であり、天竺から来た僧の役割は、相当大きなものだった。大安寺は、奈良時代の四大寺の一つで、第九次遣唐使船の第二船の同船者の、中国僧道璿、林邑(ベトナム)僧仏哲、波斯(ペルシャ)国の李密翳なども滞在する国際センターとしての役割を担っていた。
菩提僊那は751年に行基(大僧正)に次ぐ僧正になる。翌年の752(天平勝宝4)年、東大寺の毘盧遮那仏開眼供養では、病弱であった聖武上皇に請われ代わりに開眼導師となる。聖武上皇、百官、1万人を超える僧が参列し、続日本紀にも「仏法東に帰りてより、斎会の儀、嘗て此の如き盛んなるは有らず」と書かれている。造像事業に参加した人は延べ260万人に達したと言われ、当時の人口のおよそ半分にあたった。
インド政府は菩提僊那の功績が日印の両国民にもっと知られるべきと、日印国交樹立60周年の2012年、太宰府上陸(736年)から1276年の時を経て東大寺で、講演・シンポジウムや古典舞踊奉納などの継承事業を行った。菩提僊那の名が両国の教科書に載るまで続けようと機運が高まり、以来、東大寺の協力を得て毎年開催されている。
日本とインドの交流は現代も年々盛んになっている。昨年、8月末から9月初めにかけインドのナレンドラ・モディ首相が就任後、主要国の中で初の訪問国として来日された。このモディ氏の来日を契機に、インド政府は昨年10月から日本各地で「インド祭」を行っている。
その目玉として今年3月から5月17日まで、東京国立博物館で特別展「コルカタ・インド博物館所蔵 インドの仏 仏教美術の源流」が開催中だ。コルカタ国立博物館は、アジアで最初の総合博物館で、特に仏教遺産に関しては世界的にも有名。その秀逸なコレクションが展示されている。展覧会は東博始まって以来の短い準備期間だった。インド文化省から在日インド大使館に話が来たのが昨年6月。東博の企画展は通常5年前から話が始まり、3年前から準備をスタートする。これまでの日印両国の国家催事でもインド政府から国宝級文物の展覧会の要請があったが、日本では準備期間が短すぎて開催できなかった。欧米諸国では、館長、学芸員の権限が強く、短期間での対応が可能だ。その意味で、今回の東京国立博物館の英断は革命とも言えるもので、感謝したインド関係者が精力的に動き、来館者が10万人を超える勢いだ。この催事は日印交流史上初めての本格的な仏教美術の展覧会として記録されることだろう。