田丸徳善先生と日本の宗教学 ― 宗教学の反省的展開をリード(1/2ページ)
一橋大教授 深澤英隆氏
田丸徳善先生が亡くなられて、はや5カ月近くが過ぎようとしている。先生に教えを受けた者として、喪失感はあまりに大きい。またご逝去のわずか前にお電話でお話ししたときも、なお宗教研究の新しい動向についてのご関心を示され、励まされる思いであっただけに、心の準備をする暇もなかった。
田丸先生は、日本の宗教学の歴史のうちに、大きな足跡を残された。そのご業績を宗教学の歴史のなかに位置づける作業は、先生のお仕事の全体を十分に検討した上でなされなければならないが、そのための素描ともいうべき試みとして、先生のお仕事を簡単に振り返ってみたい。
1931年に東京の浄土宗寺院、照善寺に生をうけた先生は、50年に東京大宗教学・宗教史学科に進まれた。戦後の再出発をして間もない当時の宗教学研究室の主任教授は岸本英夫であった。姉崎正治以来同研究室の伝統となっていた宗教の人間学的理解とも言うべき潮流のなかで、先生は宗教学の基礎を学ばれた。とはいえ岸本宗教学がアメリカの行動科学の流れに棹さす科学主義的傾向をおびていたのに対し、田丸先生は早くから、哲学的な思考を宗教学に再接続するということを考えられたようである。もっともそれは姉崎のようなドイツ的・仏教的形而上学につらなるものではなく、解釈学的・人間学的哲学の方向づけを持ったものであった。55年からの5年におよぶ独・米への留学では、グスタフ・メンシングの下で学び、またパウル・ティリッヒの謦咳に接するなど、戦前期以来の宗教学・宗教哲学の伝統を吸収されながらも、同時に宗教学の新しい方向性を探られたことと思う。
60年のご帰国後は、立教大などを経て、73年からご出身の東京大文学部宗教学・宗教史学研究室に移られた。以降先生は、日本の宗教学の研究・教育の中軸として活躍されることになる。東大ご退官後の91年から2001年までは、大正大で研究と教育を続けられた。さて、そうしたなかで数多くの論考が執筆されてゆくが、やはりその中核をなすのは、宗教学の方法論や学問論的反省をめぐる論考群であろう。
これらの論考群は、宗教学の自己理解の大きな転換期にあたり、宗教学の歴史的回顧をふまえて、その諸前提に理論的反省を加えることを目指して執筆された。これらの多くはのちに単著『宗教学の歴史と課題』(山本書店、1987)にまとめられることになったが、同書の巻頭におさめられた77年の論考「宗教学の歴史と課題」を読むと、その行き届いた冷静な議論のはこびと先見の明に、今も驚かされる。この論考の終節で田丸先生は、宗教学が明確な方法と認識目的を持った学問であることが自明ではなくなり、一種の「同一性の危機」に陥っていることを指摘する。これに対し宗教学の方法と宗教そのもののsui generis(独自)性を主張することによって対応する動向が有力な流れとしてあることを先生は示唆する。
これは先生の師であるメンシングからエリアーデの系譜に属する宗教現象学の流れを汲む潮流であるが、田丸先生はこうした動向に「一定の妥当性」を認めながらも、「この立場の論者は、宗教学を救おうとするに急なあまり、宗教を恰も普遍の実体のごとくみなし、宗教学を一種の護教論に逆転させるのみでなく、それを不毛な孤立と、やがては窒息とに追い込む危険を犯していないだろうか」と問いかける。当時の科学論では、科学の「客観性」をどう理解するかが問題とされていた。そこでは、科学的データが理論とは切り離せない、いわゆる「理論負荷性」を持っていること、また科学外在的要因が科学理論に大きな影響を与えることが指摘されていた。
田丸先生はこうした問題が宗教研究においても問われていることを示唆し、その意味で宗教学が目指すべきは自己批判へと開かれた「相対的客観性」であるとされる。それと同時にまた宗教学は、いたずらに学としての自己同一性にこだわるのではなく、むしろ諸学に開かれた「相対的自律性」をその立場とすべきであることをも、先生は強調されている。こうした科学論的・方法論的考察の必要性とならんで田丸先生はさらに、「『宗教』概念の新しい検討」が要求されていると指摘され、その上で、宗教学が「宗教の哲学」と「宗教学の哲学」の二重の意味での宗教哲学との連携を持たねばならないと述べられる。現在宗教学を学ぶ者なら誰もが気がつくことだが、ここで田丸先生が指摘されている一連のことがらはまさに、90年代以降の世界の宗教研究の主流となった問題群なのである。