天台本覚思想と芭蕉、日蓮聖人 ― 芭蕉晩年の句境は「かるみ」(1/2ページ)
俳句結社「古志」同人、法華宗本門流正立寺住職 川口勇(日空)氏
松尾芭蕉が本格的な旅の人生をおくるようになるのは41歳の「野ざらしの旅」からである。以来数度の旅を通じて句が作られてゆく過程のなかで、句境は変化してゆく。そもそも芭蕉が晩年の10年間をどうして旅に託したのか。土芳の『三册子』には「発句の事は行て帰る心の味なり」とあるが、この「発句」を「旅」に替えることは許されるだろう。「旅の事は行て帰る心の味なり」が芭蕉の旅と発句に託された熱い本音であった。
これらの旅のなかの頂点が『奥の細道』。その中心句境は「かるみ」。「かるみ」に到達するまでに芭蕉が蕉風といわれるものを獲得したのは「古池や蛙飛びこむ水のをと」の句で、それは『野ざらし紀行』の2年前。そして「古池」の句の3年後が『奥の細道』。「古池」をはさんだ二つの旅行が芭蕉の心に大きな変化をもたらした。長谷川櫂著『古池に蛙は飛びこんだか』に「(「古池」の句は)文芸と仏教とが一つに溶解した世界」とある通り。
『野ざらし紀行』は「野ざらしを心に風のしむ身かな」ではじまる。死(野ざらし)に焦点が置かれていることを示している。決死の覚悟を詠って芭蕉は旅にでたのだ。そしてさいごは「死にもせぬ旅寝の果よ秋の暮」でしめくくられる。旅を終えたときは生が表舞台にでてきた。『野ざらし紀行』は死から生へという過程を踏んでいるわけである。しかもこのあとにでてくる句は生命万歳の句が多くを占めるようになる。生にたいする喜びの心が、旅終了の安らかな心と呼応しあう。人生は生あっての生なのだという達観。
芭蕉はこの旅によってほんとうの「生」を自覚しえた。生死生死の繰り返しがこの世の実相であるとすれば、そこを越えたところに宿る大生命。生をいったん無と自覚することによって、あらためて死を超克し、そこから啓けてゆく世界である。芭蕉は『野ざらし紀行』にこの精神を詠いあげた。それがやがて「かるみ」につながりゆく。
「かるみ」とは何か。芭蕉の『幻住庵ノ賦』には「苦桃の老木となりて、蝸牛のからをうしなひ、蓑虫のみのをはなれて、行衛なき風雲にさまよふ」とあり、『芭蕉を移す詞』には「風雨に破れ安からむ事を愛すのみ」。また去来の不玉宛て論書には、芭蕉のことばとして「余門人は桐の器をかき合にぬりたらんが如く、ざんぐりと荒びて句作すべし」とある。これらは明らかに本覚思想の影響にあることを示したもの。日本文芸の歴史にとうとうとながれている天台本覚思想そのものを芭蕉はおのずと体得しているのだ。
もともと本覚思想は中世の和歌・能楽・生け花・茶の湯などの文芸の理論化にも供せられた。藤原俊成『古来風体抄』には、和歌の道が天台止観の哲理によって強調されたし、煩悩即菩提、空仮中の三諦にふれて、仏教思想が和歌の道につながるものとした。世阿弥の能や花伝書、また茶道等にもそれらはみられ、歌の世界にかんしては正徹の『草根集』のなかにある歌「仏とも法ともしらぬ人にこそもとのさとりは深くみえけれ」、「山もみなもとの仏のすがたにて絶ず御法をとく嵐かな」などには顕著な天台本覚思想の影響をみることができる。
この正徹に師事したのが心敬。心敬はもともと比叡山で修行した天台僧だから本覚思想の影響があるのは当然。この心敬に師事して連歌を大成したのが宗祇。その『吾妻問答』には「なほなほ歌の道は只慈悲を心にかけて、飛花落葉を見ても生死の理を観ずれば、心中の鬼神もやはらぎ、本覚真如の理に帰すべく候」と、歌の道が本覚思想に結びついていることを表明している。
芭蕉はこれら二人(心敬と宗祇)を師ともあおぎ、その影響を受けた。天台本覚思想については『天台本覚論』(岩波書店「日本思想大系9」)所収の田村芳朗博士の「天台本覚思想概説」が詳しく、右に述べた一部は同書によった。田村博士は「日本文化ないし思潮と天台本覚思想との間に、相互影響がある」「自然順応性を基調として現実肯定的な文化が開け」「日本の土壌においてこそ育ったものといえる」などといわれた。そこに芭蕉の説いた「かるみ」世界ははいってゆく。
芭蕉のこうした思想的側面は、芭蕉が日蓮聖人を詠っていることと無関係ではあるまい。