天台本覚思想と芭蕉、日蓮聖人 ― 芭蕉晩年の句境は「かるみ」(2/2ページ)
俳句結社「古志」同人、法華宗本門流正立寺住職 川口勇(日空)氏
「御命講」といえば日蓮聖人の命日をさす季語だが、芭蕉にこの季語を使った句が2句ある。
御命講や油のやうな酒五升
菊鶏頭切り尽しけり御命講
「酒五升」の句は『許野消息』の許六書簡に、芭蕉が雑談のついでに、日蓮聖人の手紙に「新麦一斗竹の子三本、油のやうな酒五升、南無妙法蓮華経と回向いたし候と御座候由」と許六に語ったといい、これを典拠にこの句はできあがったと『芭蕉句集』(岩波書店発行「日本古典文学大系45」)の補注にでている。その解説にでている典拠は『芭蕉句解』をさす。この書は宝暦9(1759)年、江戸の須原屋太兵衛らによって刊行されたもので、蓼太著。芭蕉の発句86を注釈したもの。
ところがここに記されたような日蓮遺文に、そのような内容のものはない。しかも現在までに出版された「御命講の句」の解説は、すべて右の許六書簡を典拠にしている。たとえば潁原退蔵著『芭蕉』には、右の日蓮遺文を「そのまゝ用ひて、御命講に手向けた酒を称したのである」と解説し「機才を見るべき句」としている。加藤楸邨の当句の解説には「『芭蕉句解』に日蓮上人報書を引いている」として、当該箇所をコピーしている。さらに山本健吉『芭蕉全発句』も当該箇所そのままをコピーして「信徒から寄進を受けた礼状」と述べている。すべて『芭蕉句解』をうのみにしている。
聖人遺文中に信者から送られてくる供養の品々がこと細かに列記されていることは、つとに有名。聖人は筆まめで、送られてきた供養の品々の名をいちいち記したうえ、そのつど礼状をだした。これら資料のなかには真筆も多数含まれているので、それだけで鎌倉時代の庶民生活をうかがうことのできる資料的価値をもつものとして高く評価されている。たとえば御遺文中には米、麦、竹の子、油、芋、粽、餅、海苔など食だけにとどまらず、銭や袈裟や衣、帯、小袖や、馬の寄進などの礼状も残されている。
右に示した許六書簡にみられるような、新麦なり竹の子なり酒などは、すべて納得のゆく品々であることは確かだが、許六に語ったとされる内容の直接の御遺文はみあたらない。ただし類似の御遺文は『六郎次郎殿御返事』(昭和定本・一二九四)はじめ『四條金吾殿御書』(同・四九三)、『別當御房御返事』(同・八二八)、『上野尼御前御返事』(同・一八九〇)等々にある。
芭蕉はおそらく日ごろ御遺文に親しんでいたのであろう。それらの御遺文から類推し、許六に語ったわけだ。蓼太が『芭蕉句解』を著したときに誤記したとは思われない。
「御命講」の次に示すもう一つの「菊鶏頭」の句には尚白宛て書簡があり(元禄元年12月5日付)、そこには「句はあしく候へ共、五十年来人の見出ぬ季節、愚老が拙き口にかゝり、もし上人真霊あらば、我名をしれとぞわらひ候」とある。聖人の命日は10月13日(旧)だから、菊も鶏頭も数すくない時節。それをすっかり切り尽くして日蓮聖人に供え、供えながら、聖人の「真霊」が自分の行為を笑われているのではなかろうか、というのである。聖人と自分との関係がそれほどまでに深いということを、示唆したものだ。
このようにみると、芭蕉と日蓮聖人には目にはみえぬ細い糸で結ばれた絆があったことがしられる。それを結ぶものが天台本覚思想であり、『法華経』そのものを縁としているといってよい。「かるみ」との関係性についても、このことは示唆的である。