一休の純粋禅と断法の思想 ― 印可を徹底的に否定(1/2ページ)
堺市博物館学芸員 矢内一磨氏
正法を後世に伝えることは、発心、修行をして悟りの境地に到った者の責務といっていいであろう。遠い天竺・唐土からの空間的な正法将来にあたり、多くの仏教者が大変な苦労をしたことは、言うまでもない。しかし、正法を後世へ時間的に伝達するために、多くの仏教者が同じく苦労したことも忘れてはなるまい。
ところが、かつて自ら得た法を断つと宣言した人物がいた。室町時代の禅僧・一休宗純(1394~1481)である。
一休については、後世の説話『一休咄』による希代の頓知坊主のイメージが世上に流布しているが、純粋禅を守った真摯な修行者である一面を忘れてはならない。一休は、京・近江で30歳代半ば頃まで修行生活を送る。大徳寺派の華叟宗曇の許での修行は、一休を後には南宋の禅僧で自派の祖にあたる虚堂智愚の継承者であることを宣言する正統的な純粋禅を体現する禅僧へと成長させていった。
祖師の法を護り、天下国家の安寧と民衆の安定を祈る。そして、次の世代へ祖師の法を静かに正しく伝達する。名利や虚飾とは無縁な求道生活が、純粋禅の継承者を自負する一休にはふさわしいものであったのかもしれない。ところが、時代はそれを許さなかった。
一休が生きた中世末の社会は政治・経済とも混乱を極めた時代だった。禅宗寺院を外護した朝廷・幕府・荘園領主は力を失い、地方の大名や都市の豪商たちに富の集積は移りつつあり、近世への胎動を感じさせる時代でもあった。
その動きを最も象徴的に体現したのが、貿易都市堺である。遣明貿易や国内貿易で急速に富を蓄えた堺は、国内最大の経済都市へと成長をしていた。莫大な富を蓄えた堺の都市民は、都市運営をそのなかでもとくに有力な豪商による会合で行うシステムをつくりあげた。イエズス会の宣教師によってベニスの如き議会制と報告をされた会合衆による都市運営である。
そのような都市に対して禅・法華・念仏のような新しい宗教勢力が、布教活動を行うことは、当然の理である。一休もその一人であった。その年譜によると1432、35、69、70、74年とたびたび堺を訪れている。都市民が牽引する経済と大陸から直に入る文化が醸し出す空気に触れる堺巡遊は、一休にとって好ましいものであったであろう。しかし、同時に華叟門下の兄弟子養叟宗頤一派の都市布教の実態に接することにもなった。そして、それは純粋禅には程遠いものであった。
1456年頃に一休とその弟子たちによって編まれた詩文集『自戒集』は、堺布教を辛辣に批判する。養叟の堺布教では従来の大徳寺派の布教対象の主流から外れていた比丘尼・商人・田楽(芸能者)・座頭が主要な対象となっている。つまり社会的階層は低いが貿易都市で活躍する富を持った新興勢力である。教養層ではない彼らへの布教方法は「カナツケノ古則ヲヲシヱテ」、「得法ヲサセラレ」という形式で行われた。
「地獄ノ話」「栢樹子」「西江水」といった禅の先師たちが必死に取り組んだ禅の公案がカナで書かれ、都市新興層の茶飲み話とされてしまい、教えを受けた人々は、「自分は養叟さまから地獄ノ話を聞いたから、地獄には落ちない」といった自慢をし、悟りを得たかのように振る舞い、他に禅の教えとしてにわか仕込みの公案をしゃべっている。一休にとっては純粋禅の堕落以外の何物でもない。
そこで、布教について「養叟流の布教は純粋禅の堕落に満ち、満載の教義は担うと真ん中で担い棒が折れてしまった。養叟に接した比丘尼たちはいっぱしの悟りを得たと喜んでいるが、覚えているのは、雁高(男性器の意)のような竹箆の大きさだけ」とまで言い切る。また、養叟が55年に堺で開いた陽春庵についても鋭い舌鋒が向けられる。
陽春庵建立を「新たに楽屋を打ち」とし、養叟の弟子で堺での支援者の要兄と小免助四郎が信者集めに辣腕を振るう姿を「芝居への動員」と表現する。そして、養叟の陽春庵では「庵ヒラキニ、五種行ヲ行フ」とする。
五種の行とは、「一ニハ入室、一ニハ垂示・着語、一ニハ臨済録ノ談義、一ニハ参禅、一ニハ人ニ得法ヲオシウ」である。入室は個人教授、垂示・着語は法話による集団指導、臨済録ノ談義は語録の講義、参禅は坐禅の指導、人ニ得法ヲオシウは得道得悟の証としての印可取得の指導といったものである。いずれも祖師以来の純粋禅から逸脱したものであり、もはや陽春庵は仏法を売る堕落をしきった芝居小屋であると揶揄するのである。