一休の純粋禅と断法の思想 ― 印可を徹底的に否定(2/2ページ)
堺市博物館学芸員 矢内一磨氏
さて、一休は純粋禅の忌むべき混乱は、悟りを得たとする印可(証書)にあると考えた。自分は華叟からの印可下付を拒否したし、そもそも証書が純粋禅と何の関係があるのか。そこで一休は民衆への印可の濫発の動きを断つため、印可を徹底的に否定する。そしてついには印可を否定する余りの転宗断法宣言に到る。
『自戒集』においては、一休は印可の証とされる祖師の肖像である頂相を本山へ返却して、禅を捨てて念仏宗や法華宗になったとまで述べている。これほどまでに断法の思想を鋭角的に表現した人物を寡聞にして知らない。
もっとも転宗宣言は、印可を持たない他宗へ転じてでも純粋禅を貫徹するという表現であろう。養叟一派と堺の富裕層に突きつけた鋭い言葉、すなわち研ぎ澄まされた比喩であり、印可を濫発する貴方たちの禅など捨てるという比喩表現を額面通りに歴史的事象に当てはめて、一休が念仏宗や法華宗になったという解釈をする必要はあるまい。
ところで印可の下付による布教は養叟一派の専売特許ではなかった。ここで、養叟の側に立って考えてみよう。養叟の布教を15世紀の歴史の文脈で考えた場合、堕落の一言で片付けてよいのであろうか。
これまで禅の教化の対象から外れていた文字を知らない、あるいは漢字を知らない民衆に対し、法話による集団指導などで布教をして地獄の恐怖からの救済を行う。新興都市である堺の富裕層が求めた文化的渇仰を満たす教団側からの動きであり、それこそは、新しい時代の社会の胎動に反応した禅の布教改革の試みでもあったことを忘れてはならない。尼への個人教授・芝居小屋での禅の芝居と揶揄されているが、女性富裕層・芸能者ともに15世紀の歴史の舞台に現れた名優であることに異論はあるまい。
一休が批判する養叟周辺に見られる動きは、堺で布教を行う一休周辺でも発生する傾向にあった。『自戒集』においては、自派のそのような傾向を戒める言葉が繰り返されている。
それは、詩文集のタイトルを自戒としたことに端的に示される。堺という都市を舞台にした自派および同系の養叟門派の布教活動に対して、一休が発した比喩に満ちた自戒の言葉によってつづられた書が『自戒集』なのである。室町時代の堺で布教する一休が『自戒集』に残した激しい言葉は、現実と対峙するなかで、何物にも因われない純粋禅の立ち位置を明確にするために、「自戒」に立脚して発した、比喩に満ちた語彙であると結論することができる。
一休が遷化する直前の78年。一休派の後継者を指名する段階においても断法の思想は出現する。京田辺の酬恩庵で静養する体力が衰弱した一休に対して、親交があった尼崎・広徳寺の柔中宗隆から後継者を立てよと忠告が入る。虚堂以来の正法の伝承を一休の代で断つことは、祖師への「不忠」であるとの言葉であった。
それでもなお、一休は断法の意志を示す。一休派は四散の危機に瀕した。一休の弟子たちは師匠に対し、後継者指名を迫る。後継者の器は数名いるが、後継者は指名したくないと渋る一休を弟子たちはさらに追い詰める。とうとう一休は高弟の没倫紹等の名を口に出してしまう。
弟子たちは驚喜して没倫の下に押しかける。ところが没倫は、師匠がそういったとしても、それは病気で頭が変になったか、年がいって耄碌したかどちらかだ。一休に長年にわたって仕えて言動を見ておいて、馬鹿なことをいうなと怒って席を立ってしまう。強烈な断法である。
一休の間近に居り、後に一休派の中心になった祖心紹越の回顧であり、大徳寺・真珠庵文書に採録される祖心の直筆記録であるから間違いあるまい。
では、いまに伝わる一休の法は81年に一休が遷化した後、どのように後世に伝達されたのであろうか。一休が遷化した後に弟子たちは、自派の大事を合議で決するために、京田辺の一休が眠る祖師塔に一年に一回結衆する仕組みをつくりあげた。ブッダの示寂後、仏弟子たちが結衆を繰り返して原始仏教教団を形成し、ブッダの法を後世に伝えたことを彷彿とさせる。
一休の法は印可によって伝承されることも、その死によって断法されることもなく、そのまま後世に伝えられたのである。その仕組みは、時代によって機能の強弱はあっても明治時代まで継続した。
一休の弟子たちが師の断法の思想を乗り越えて、現在にその法を伝えたともいえよう。従来、一休一代限りの法のように語られた風狂の思想もこのような観点から語られるべきであるかもしれない。