「総合経典」としての法華経 ― 信仰の対象、仏そのもの(1/2ページ)
神戸女子大学瀬戸短期大名誉教授 岡田行弘氏
先ごろ完結した春秋社の「シリーズ大乗仏教」(全10巻)では、大乗仏教に関する様々な問題が取り上げられ、最新の研究成果が集約されています。インドで誕生した大乗仏教を説明するためには多くの言葉を重ねなければなりませんが、とりあえず「大乗仏教は大乗経典を仏のことばとして受け入れる仏教である」と定義できるでしょう。ここでは「経典」ということがポイントで、大乗仏教はまず経典として仏教の世界に出現したのです。
アショーカ王の時代以降、仏教教団は経済的に安定し、一般社会からの供養を受けるにふさわしい威儀を保っている複数の部派が共存する時代を迎えていました。この時代までの経典は、いわゆる阿含経典です。弟子たちによって記憶されたブッダの教えは、教団の内部で暗唱によって安定的に伝承されました。個々の経典は、比較的短く、特定の教理(例えば無我、四諦、縁起など)を説くものであり、そのカバーする領域は限られています。ブッダの教えを全体として理解し、習得するためには、個々の経典を分析しダルマの体系として再編成しなければなりませんでした。
一方、紀元後1世紀頃から制作されはじめた大乗経典は量的に長大であるだけでなく、その構成要素は複雑です。しかも物語性に富み、内部で教説が発展していく、という特徴があります。例えば、法華経では前半部が終了すると突然、大地の中から無数の菩薩が出現し、後半部の中心である「如来寿量品」において、仏の寿命が過去から未来に至るまで継続しているという教説が展開されることになります。
こうした特徴のために大乗経典は、書写されたテキスト(経巻、写本)という形態になって初めて完成し、伝承されるようになります。大乗経典には書写の功徳を強調し、経巻の供養を奨励する経文がしばしば登場します。そこからは伝統的な声聞の修行道を歩む比丘たちが多数を占める当時の仏教教団において、当初は少数派であった大乗経典の存続・伝承が容易ではなかったことを読み取ることができます。
ここでは般若経と法華経を簡単に見てみましょう。両経典の背景には、ブッダが入滅してから500年経って、その正しい教えが失われつつあるという時代認識があります。
般若経(『八千頌般若』)は仏の一切智を「般若波羅蜜」として新たに提示し、従来の仏説を統一的に再構成しようとする経典です。「般若波羅蜜」は「諸仏のさとりの源」であり「菩薩の生みの母」であり「教法の蔵」であるとされます。般若経の中にそれまでの仏教の教理が、再解釈され、すべて包含されるというわけですから、仏滅後の世界では、般若波羅蜜が仏の役割を担うことになります。
法華経は釈迦仏の不在の時代に、あらたな仏のことばを届ける経典です。仏教では、個別の教理は弟子が説いても差し支えありません。しかし、成仏を目標とする仏教者にとって最も重要な「あなたは仏になります」ということば、すなわち、成仏の保証・確認は、現に存在する仏によって与えられた時、真実となります。法華経は、「すべての人は成仏する」ということばを与える久遠仏(=現在する釈迦仏)を生み出す経典です。法華経の「如来寿量品」では「仏は常に法を説いて衆生を教化し、仏のことば(=法華経)を信じる人にはその場に仏が出現する」と説かれています。釈迦仏の滅後の世界においては法華経が仏そのものなのです。
両経典はともに書写された経典(経巻)を供養することを奨励し、経典を実践することによって、広大な功徳が獲得されることを強調します。般若経や法華経は、「般若波羅蜜が記された経巻(法華経の経巻)に花・香料・灯明を布施して供養して獲得される福徳は如来の仏塔に同様の供養をして得られる福徳よりもはるかに大きい」と説き、当時一般的に隆盛していた仏塔崇拝よりも経典の供養を奨励しています。つまり、信仰の対象として、ブッダの遺骨でなく、ブッダの智慧の源である般若波羅蜜やブッダのことばとしての経典を優先し、選択することを全面に打ち出しているのです。