「総合経典」としての法華経 ― 信仰の対象、仏そのもの(2/2ページ)
神戸女子大学瀬戸短期大名誉教授 岡田行弘氏
経巻が生み出す功徳や現世利益を説く章品は、経典の核心的教義が示された直後に配置されています。このように般若経や法華経は在家者が求める除災や現世利益から、出家者が目指す涅槃の獲得まで仏教に求められる多様な願望に対し、単一の経典の範囲内で対応できるように構成されています。これは阿含経典には見られない大乗経典の特徴と言えるでしょう。
般若経は「大乗とは無量と同じ意味であり、無数の衆生を入れる余地がある」と説き、また法華経は自らを「拡大された経典(ヴァイプルヤ・スートラ)」と規定しています。つまり経典という形式を取りながら、内部に従来の仏教の諸相を総合的に包み込み、仏教の新たな出発点としようと意図しているわけです。
そのために経典に対する非難・批判に対しては厳しく応答します。般若経では、般若波羅蜜を誹謗する者は、大地獄に生まれると説き、また法華経でも経典を誹謗することは手厳しく批判されます。これらの経文は、現代の読者を当惑させる場合もありますが、経典作者にとっては「般若波羅蜜」や法華経は「信仰の対象」であり、仏と同等なのです。つまり経典に対する批判は、仏教全体を誹謗するものであると受け止めているわけであって、排他的とも見られる経文は、総合性と表裏一体の関係であると考えられます。
法華経の編纂者は先行する般若経の構想や内容を参照しながら、他方世界の諸仏への信仰が広まって仏のイメージが拡散しがちな時代状況を認識したうえで、釈迦仏を正統とする「衆生成仏の一切の教えを総合する経典」として法華経を完成しました。
法華経の弘通を説く「如来神力品」で、仏は結論として次のように宣言します。
「私は、ブッダのすべての教え、ブッダのすべての威神力、ブッダのすべての秘要、ブッダのすべての深遠な境地を要約して説いた」
同時に仏は、法華経の菩薩たちに経典の流通を委嘱します。彼らのなすべきことは、法華経を受持し、読誦し、書写する等の実践活動です。そしてその場は直ちに「諸仏がその所で、さとりを獲得し、教えを説き、涅槃に入る」という道場になると説かれています。つまり法華経が実践されれば、それは時間的空間的な制約を超越した仏教の聖地になるわけです。
さらに巻末の諸品では、当時の仏教世界における種々の動向、例えば観音菩薩の衆生救済や陀羅尼の威力を法華経の信仰の形態として位置づけ、法華経の内部に取り入れています。このように法華経は、それまでの仏教をめぐる様々な要素・活動を統一し、総合する経文を展開していますので、「総合経典」と呼ぶことが適切であると思います。
仏教への入門は三宝への帰依からはじまり、戒定慧の三学を習得していくわけですが、そのような伝統的なインドの仏教世界において、総合経典と形容できるいくつかの大乗経典が生み出されました。その結果として、仏教のあり方が大きく変容することが可能になりました。すなわちある一つの「総合経典」に全面的に帰依し、その教説を実践することを活動の中心に置くグループが成立するという可能性です。そこでは出家と在家という伝統的な仏教における区別は解消されることにもなります。しかし、歴史的に明らかなように、大乗経典は律によって出家者の生活が規定され、伝統的な修行道が厳然と存続しているインドの仏教世界を根本的に変革させることはありませんでした。
その一方、インドとは全く異なった風土・生活習慣を持つ中国や日本(インド仏教の律蔵が適用されない文化圏)にもたらされた大乗経典のいくつかは、広範に受容され、宗派の所依の経典となります。これはその大乗経典が、「仏教を総合する経典」として完成されており、教理から実践まであらゆるレベルの仏教を展開させる力を持っているからです。そのような総合経典としての大乗経典の白眉が法華経と言えるでしょう。