入唐僧 恵蕚の足跡たどる ― 遣唐使後の日中交流の礎を築く(2/2ページ)
関東学院大経済学部教授 田中史生氏
日唐往来を新羅商船に頼る恵蕚が北路での帰国をあきらめ、明州から大洋路で帰国したのは、彼を支援する在唐新羅人らの助言に従ったものだろう。海上交通の安全性が、その海域と接する陸の政治や社会情勢に左右されるのは、今も昔も同じなのだ。
帰国した恵蕚は、それほど時を空けず、844年初頭には再び唐に戻っている。この時も、おそらく新羅商船で、黄海海域を避けて明州に上陸した。彼の任務は主に二つ。
一つは、義空禅師を日本に招聘すること。もう一つは、日本からの供養料を五臺山に届け、山中に「日本国院」を作ることである。これらの計画にも、嘉智子をはじめとする天皇家の意向があった。
ところが、明州から五臺山への道を急ぐ恵蕚は、唐仏教界を取り巻く環境の激変に困惑する。道教に傾斜した武宗皇帝が、仏教を徹底的に弾圧する、いわゆる会昌の廃仏を始めたのである。このために、明州から北上していた恵蕚は、長江を渡ることができず、僧の身分を隠したまま蘇州に長く足止めされることとなった。
しかしここで恵蕚は、その後の日本史にも影響を与える二つの重要な出会いをしている。一つは、白居易(白楽天)の『白氏文集』との出会いである。それは、蘇州南禅院で厳重に保管・管理されていた。
これまでも日本には『白氏文集』が断片的には伝わっていたが、恵蕚は特別な許可を得て、当時の最新版である70巻本を書写するチャンスに恵まれたのである。書写した文集は、恵蕚の帰国より一足早く844年に日本に届けられ、平安文学などにも多大な影響を与えることになった。
もう一つは、江南を拠点に幅広く交易活動を行っていた唐商との出会いである。彼らは、武宗の廃仏政策に批判的で、弾圧される仏教界を密かに支援していた。こうして新たに親交を深めた唐商らの協力を得て、847年、恵蕚は義空を連れて日本に戻った。義空は、仁明天皇や嘉智子に大いに歓待され、それに協力した江南の唐商も天皇家の信認を得て、以後、日中交流の主役に成長していくことになる。
しかし、せっかく来日した義空も、日本仏教界の戒律の乱れに深く失望し、854年には唐に帰国してしまう。この間、武宗皇帝の死去を契機に唐仏教界は復興を遂げつつあり、日本では、義空最大の支援者だった仁明天皇や嘉智子が亡くなっている。義空の帰国には恵蕚も同道した。彼が普陀山の観音信仰とかかわりを持つのは、その少し後のことである。
諸史料が伝えるところによると、聖地普陀山は859年、恵蕚が五臺山から日本へもたらそうとした観音像が、普陀山の先へ進むことを拒み、この島に安置されたことを始まりとする。注目されるのは、その話の骨格が、すでに恵蕚と同時代に、観音像を最終的に安置した明州の開元寺で語られていたことである。しかも恵蕚は明州開元寺を度々利用していたから、この奇譚の成立に、開元寺だけでなく恵蕚自身がかかわった可能性が高い。
明州が東アジアの交易拠点として発展し、舟山群島も海上の中継地としての重要性を増す時代、ここを行き交う人たちは皆、旅の安全を願う拠り所を求めていた。おそらく恵蕚は、日・唐・羅の多くの人々に支えられた恩を感じつつ、その旅人たちの苦しみに応えようとしたのだろう。こうして普陀山は、民族や国境を超え、広く崇敬を集める聖地となった。
さて、私たちは今、歴史の共有空間を国境付近でつまずかせ、困惑している。恵蕚は、こんな現代にも、多くの示唆を与えてくれているような気がしてならない。