入唐僧 恵蕚の足跡たどる ― 遣唐使後の日中交流の礎を築く(1/2ページ)
関東学院大経済学部教授 田中史生氏
中国四大聖山の一つ、浙江省舟山群島の普陀山は、観音霊場として名高い。休日ともなると、各地からの多くの観光客でにぎわう。その島の東南に、不肯去観音院という小さな寺院がある。9世紀の日本僧恵蕚が聖地普陀山を開基したことを記念し、1980年に建てられた。寺の門の壁に、恵蕚の開山伝承を描いた青灰色の石製レリーフがはめこまれているが、恵蕚像の部分だけひときわ黒く光っている。観光客らがしきりになでるからである。
しかし日本では、恵蕚の名を知る人は少ない。彼の出自や法脈は不明で、研究もあまり進まなかったからである。ところが最近、筆者は、恵蕚の関連史料を調査する機会があり、そこで、恵蕚の歴史への貢献の大きさに驚かされることとなった。
最後の日本の遣唐使となる承和の遣唐使が派遣された9世紀の半ば、日本の近海では新羅人・唐人の商船が入り乱れ、活躍の場を広げていた。恵蕚の最初の渡唐が確認できるのは、こうして東アジア海域の主役が、国家の仕立てた外交使節船から商船へと切り替わろうとする時期であった。その時の恵蕚の様子を、承和の遣唐使船で入唐した延暦寺僧円仁の在唐日記、『入唐求法巡礼行記』が捉えている。
それによると、遣唐使が帰国した直後の841年、恵蕚は弟子とともに新羅商船で楚州(江蘇省淮安市)に上陸した。ここには、対日交易に携わる新羅出身者の集住地区があった。恵蕚は彼らを頼って楚州を訪ね、そこから中国北方の五臺山へ向かったのである。その後、同年のうちに江南に入り、天台山へも足を延ばし、翌年、明州(寧波)から帰国している。
このように、恵蕚最初の入唐は、わずか1年ほどの間に、中国の南北を駆け巡る慌ただしいものとなった。そこには太皇太后橘嘉智子の意向が働いていた。この時、嘉智子は自ら製作した袈裟や宝幡を恵蕚に持たせ、五臺山だけでなく、彼女の崇敬する高僧らの祀堂へも奉施を命じていた。
また、本格的な禅宗の導入をはかり、杭州塩官にあった著名な禅僧斉安の招聘も試みさせている。すでに老齢で体調のすぐれない斉安は、この誘いを受けられず、弟子義空を紹介したが、その義空も来日の準備がすぐには整わなかった。そこで恵蕚は、天台山を巡礼後、義空を残したまま、近くの明州から新羅人の操る商船で帰国したのである。
ところで、恵蕚が842年の帰国で用いた明州・舟山群島から直接九州へと到る海上ルートは、後に「大洋路」と呼ばれ、日中を結ぶ航路として頻繁に用いられるようになる。恵蕚の雇った新羅人の商船は、この大洋路を航行した最初の商船でもある。
しかし、もともと恵蕚は、渡唐ルートを逆にたどる帰国を計画し、楚州の在唐新羅人に船の手配を依頼していた。楚州から山東半島・朝鮮半島沿いに博多へ到る北路である。この方が外洋航海の距離が短い分、安全性も高い。ところが、恵蕚がいよいよ帰国をしようとする時になって、北路海域に緊張が走る事件が起こった。
新羅交易者の首領の張宝高(張保皐)が、新羅王権と対立して暗殺されたのである。新羅の貧困層出身の宝高は、故郷を離れて唐で身を起こした後、新羅に戻って唐―新羅―日本を結ぶ交易世界に君臨した人物。しかし、さらなる出世を求めた彼は、新羅政界に深入りしすぎて身を滅ぼしてしまった。
こうして宝高というカリスマを失い統率のとれなくなった交易者たちは、それぞれに利権を争い激しく対立する。彼らの交易拠点は、黄海を取り囲む中国沿岸部から朝鮮半島に築かれていて、この海域がたちまち紛争の海に変貌したのである。