「命てんでんこ」考 ― 生命の尊さを多層的視点で(2/2ページ)
大正大教授 弓山達也氏
ただそこには防災的、心理的負担の軽減だけではなく、もっと違う次元が横たわっているに違いない。それは例えば普段から深くつながっているからこそ離れて逃げなければならない峻厳さ、ばらばらになって、たとえ万が一のことがあっても、きっとどこかでつながっているであろう願い、そうした、いわばスピリチュアルな次元がそこにはあるのだ。
筆者は、昨年12月26日に京都で開催されたコルモス(現代における宗教の役割研究会)研究会議(本紙1月7日号に既報)でこの話をして、参加の僧侶から「てんでんこは、あなたに逃げてほしいという意味で、他者の命を大切にする思いと矛盾しない」という指摘をいただき、ハッとしたこともある。
もちろん「てんでんこ」の解釈として、どれが正しいかを問うているのではない。当事者にとっても多義的であろう。昨年、筆者は東日本大震災後の津波で娘さんの命を奪われたご家族を訪問したことがある。その娘さんが役場の防災業務を全うして亡くなられたことから、職場のあったところには今も花が手向けられ、彼女を学校の道徳の教材として紹介したいとの申し出もあるという。実際、ご両親は家を開放して津波の恐ろしさを伝えるボランティアをされている。
しかし娘さんの死が自己犠牲として礼賛されていることに対しては「美談ですか」と強い語調で否定されたのが印象的であった。
残されたお母さんは手記も著されている。その中には「自責の念」という言葉が見られる。同時に「亡き娘と共に生きる」という思いもつづられている。娘さんの死と生き残ったご両親をめぐって、後世に残す教訓、美談、自責の念、共に生きている感覚など、様々な物語が生まれ、それらは一つに収斂するには、まだあまりにも生々しすぎる。そして当事者の前では「受け止め方は人それぞれですね」などとは口にできない、つまり他人事の相対主義を寄せ付けない重さと深さがある。
「生命尊重」という4文字にすると、あまりにも素っ気ない道徳の学習目標に接近するには、「てんでんこ」のみならず、こうした多様性と重さ、深さに子どもたちの意識を向かわせるしかない。
しかしこうした教材を教えるには豊かな人生経験・感受性や卓越した洞察力が必要である。いのちの教育の現場には「名人芸」を披露する教師が時々現れる。しかし誰もが名人になれるとは限らない。そこで目に見えない徳目を見えるようにエピソードで可視化し、複雑に絡まった議論を分かりやすく整理し、どこの誰でもが使えるような教材で授業を標準化し、子どもたちがきちんと身につけたのかどうかを測定する検証方法が必要となる。
つまりマニュアルを作る訳だが、マニュアルを作ろうとすると「誰が」「何の目的で」と、「価値の押しつけ」に対する警戒感が生じる。こうした道徳教育に関する危惧は、先の『心のノート』への批判の中心でもあり、『私たちの道徳』でも顕在化しつつある。
これを回避するためには、すでに実施している学校もあるが、道徳教育に保護者や地域の人々が積極的に関わるなど、道徳教育を家庭や地域に「開いてみる」ことだろう。道徳教育は教師や学校だけで完結するのではなく、コミュニティーの様々な視点を交わらせることで、政治的・個人的な意図や思惑の恣意性を乗り越えることができよう。
またマニュアル化すると道徳教育はどうしても言葉が上滑りし平板になりがちである。「てんでんこ」を「自分の命は自分で守れ」という字面だけで解釈してしまう陥穽がそこにある。たとえ別れても共にいるというようなスピリチュアルな次元の視点が関わらないと、「てんでんこ」の話は理解できない。
マニュアル化にともなう平板化を打破するためにも、道徳教育には多層的な視点が不可欠で、その多層性を機能させるためにも、道徳教育を家庭や地域に開く必要があるのだ。もちろん、そうしたスピリチュアルな視点に宗教者の活動や知恵が期待されていることはいうまでもない。
とはいうものの開かれた家庭や地域がそれに応えられるかどうかは心許ない。子どもの道徳に関わる喫緊の課題を突きつけられ、家庭も地域もそれに呼応して変貌を遂げ、学校とともに成長し続ける、そのような理想的なスパイラルが求められよう。