「命てんでんこ」考 ― 生命の尊さを多層的視点で(1/2ページ)
大正大教授 弓山達也氏
2002年に全国の小中学生に文科省から配布された道徳教育用教材『心のノート』が今年度から『私たちの道徳』というタイトルで、全面改定された。『心のノート』が短いフレーズや写真・絵を多用してイメージとして分かりやすい半面、抽象的との批判もあってか、『私たちの道徳』には偉人・著名人伝や読み物資料が盛り込まれ、ボリュームアップがはかられている。文科省はこの教材の活用推進事業に約6億円の予算を計上し、今年度の新規事業「道徳教育の抜本的改善・充実」(14億円)の最初にすえている。
『心のノート』の時もそうであったが、『私たちの道徳』に関しても活用推進の意見とともに、ある種の思惑をこの教材配布の背後に感じ取る向きもあるようで、すでに賛否の議論が出されつつある。
下村文科相は5月12日に自らのフェイスブックに「児童生徒に他の教科書のように家に持ち帰らせず、学校に置きっ放しにさせている学校があることが判明しました。是非保護者にも読んで頂きたいと考えています。子供たちが、きちんと家に持ち帰っているか調べて頂きたいとお願いします。そうでないところは文科省として指導したいと思います」と一般公開で書き込み、話題を集めた。道徳を「特別な教科」にするという動向にも、今後、この教材は絡んでくるのだろう。
ところで筆者が『私たちの道徳』で注目したいと思うのは、小学校高学年版のいのちの教育のパートにある読み物「命てんでんこ」である。『心のノート』の同学年版では、いのちは、与えられ、支えられ、人間を超えた「大いなるもの」とつながっており、だから輝かさなければいけないという明確な輪郭が描かれていた。東山魁夷の画と語りが用いられ、迫力ある内容になっていると同時に、抽象的で分かりづらい、一方で押しつけがましいという意見が聞かれた。
『私たちの道徳』では、「大いなるもの」が「大いなる自然」とも言い換えられ、また近親者の死という比較的分かりやすい事例もあげられ、子どもたちの理解を助けている。
ここで取り上げられている「命てんでんこ」の話は、東日本大震災を体験した中学生の作文で、そこには「僕はがれきの中を歩きながら思ったことが二つある。一つは『命てんでんこ』という言葉の深い意味。命より大切なものはありません。どんなことがあっても逃げることを考えてください。命があればどうにでもなります。未来に向かって歩き出せます。/もう一つは、負けたくないと思ったこと」と書かれている。
「命てんでんこ」は、三陸地方で伝えられる「津波の時はてんでばらばらに逃げろ」という意味の言葉である。震災後の防災教育では「てんでんこ避難」とも呼ばれ注目を集めた。同時にこの言葉は自分だけが生き残ってしまった遺族の自責の念を和らげる働きがあるとも指摘されている。そして興味深いのは、これまでの道徳の副読本の多くが自らの命や財産をなげうって他者の命を救うことに目を向けていたのに対して、「自分の命は自分で守れ」は大きく異なる点である。
同じ小学校高学年用の道徳の副読本では、どのように「いのち」は教えられてきたのだろう。
例えば関東大震災で妻子の無事を案じつつ見ず知らずの人を救い、隅田川の中で自分が力尽きておぼれる恐怖に打ち勝ち何十人もの人を助けた男を描いた「もう火の中で」(『かがやけ みらい』学校図書)。山岳警備隊の活動に焦点をあて、隊員が心身の限界を超えて女子学生の命を守ったエピソードを紹介する「命をかけて命を守る」(『ゆたかな心・新しい道徳』光文書院)。安政南海地震の際、高台にある刈って積み上げられたばかりの稲藁に火を放ち沿岸の人々を津波から救った名主の話「稲むらの火で命を救え」(『5年生の道徳』文溪堂)などがある。
いずれも自他の生命の尊重や支え合う命を学習目標とする感動的な読み物である。こうした自己犠牲的な態度からすると、「自分の命は自分で守れ」という「てんでんこ」は、見方によっては180度の転換ともとれよう。
「命てんでんこ」は防災教育のスローガンなのか、遺族のためにある言葉なのか、他者の命を大切にする行為と矛盾するのか、教育現場ではいったいどうやってこれを教えるのだろう。
『私たちの道徳』には先の作文が掲載されているだけである。文科省が作成した指導資料書には「児童は様々な視点から生命の尊さについて考えを深めることができる」とあるが、その「様々」について言及はない。