円珍晩年の「辟支仏」とは誰のことか ― 聖宝との接点探る(1/2ページ)
愛知県立大非常勤講師 湯谷祐三氏
辟支仏とは、十二因縁の法を観じて悟ることから縁覚といい、師無くして独悟することからは独覚ともいう。これは仏の教えを聞いて悟る声聞とともに、大乗の立場から見れば、自利に傾いた小乗の聖者と見なされる。縁覚・声聞の二乗と、利他をはかる大乗の菩薩の三者の関係について、『法華経』方便品には、「唯一乗の法のみ有りて、二も無く、また三も無し」とあり、二乗や三乗の区別が否定され、それらが統合されたものが一乗であると解釈される。
この一乗と三乗をめぐる問題は、9世紀初頭の最澄と徳一による「三一権実」論争から10世紀中頃の「応和の宗論」に至るまで、『法華経』を所依の経典とする天台宗において繰り返し取り上げられた重要命題であった。
仁和3(887)年秋、第5代天台座主の円珍(814~891)は『辟支仏義集』なる著作を撰述した(『智証大師全集』中巻所収)。これは多数の経論から抄出した辟支仏に関する言説を配列したもので、その冒頭に付された円珍自身による「辟支仏義集縁起」によれば、辟支仏の存在そのものを否定するのではなく、独悟した辟支仏も最終的には大乗の教え(この場合は一乗の思想であろう)に廻向することが重要であると主張し、もしそれが無ければ増上慢によって阿鼻地獄に堕ちると厳しく批判する。
この『辟支仏義集』撰述の目的について佐伯有清氏は、この「縁起」の中に「北轅」「麤食」といった、最澄が徳一を批判した際に使用した特徴的な言葉が使用されていることから、「徳一、およびその流派にたいする批判」とされた(人物叢書『円珍』)。
しかし、最澄との論争から約70年の歳月を経て、円珍が徳一との論争を蒸し返そうとしたとは考えにくい。また、白土わか氏は「当時の現実の社会情勢が背景にあった」と推定するものの、具体的には役小角や泰澄・法道といった古代の伝説的山林修行者の羅列に終始され、円珍その人をめぐる「当時の現実の社会情勢」を考察するという方向へは進まなかった(「日本仏教における辟支仏の問題」)。よって、『辟支仏義集』の撰述の目的や批判の対象についてはいまだに明確でないといえよう。
筆者は、『辟支仏義集』所引の経論が辟支仏をしばしば山林修行者に擬することや、先の「縁起」の表現などからみて、円珍の批判対象は南都の教学を身につけると同時に山林修行を実践する仏教者であると考えた。
さらに『辟支仏義集』が撰述された仁和3年秋は、8月26日に光孝天皇が崩御して宇多天皇(867~931)が即位するという政治的に重要な転換期と一致しており、後述のように新帝が幼年時より山林修行を実践していることをふまえれば、円珍の直接の読者対象は宇多新帝であり、批判の対象は新帝に仏教的影響を与えうる人物であると推定した。そして当時、以上の諸条件をすべて満たす人師は、醍醐寺開山聖宝(832~909)をおいて他にないと考えている。
宇多天皇は自身の言葉によれば、8、9歳という若年の頃より天台山に登って修行を事とし、爾来毎年寺々に参詣して出家の志を持っていたという(『扶桑略記』寛平元年正月条)。
また、即位早々に時の権力者藤原基経が「阿衡の紛議」といわれる一種の示威行為に出たことから、良房・基経と継承された摂関体制に反抗する姿勢もあったようで、これはかつて良房の意向を受け清和帝の護持を自身の宗教活動の中心に据えていた円珍にとっても心穏やかなことではなかったろう。