現代日本の仏教とジェンダー ― 龍谷大主催ワークショプから(1/2ページ)
曹洞宗東昌寺住職 飯島惠道氏
尼僧に社会的宗教的痛み
昨年7月19日、龍谷大学アジア仏教文化研究センター主催のワークショップ「現代日本の仏教とジェンダー」に参加した。筆者は、2008年の夏、築地本願寺において開催された「おんなたちの如是我聞 ジェンダーイコールな仏教をめざして」にもシンポジストとして登壇させていただいた。あれから6年。理想を言うならば、この間に、「仏教とジェンダーに関して、こんなにも進展があった」とご報告申し上げたかったが、残念ながらそれはかなわなかった。発表内容は、前回と大きく違わない内容となった。
2008年のシンポジウムでは、控えめに、筆者が住職を勤める寺がある地域の現状を伝えたが、今回は具体的な事例を挙げて発表した。さらに今回の発表の内容を考えるうちに、筆者はあることに気付いた。筆者が「仏教僧侶として生活を営む上で、ジェンダー不平等を感受することは、自分にとっての社会的・宗教的痛みになっている」ということだった。
「社会的・宗教的痛み」という言葉は、主にがん等を患う患者が抱える四つの痛みという文脈で使われることが多いが、前述の「痛み」に関しては、がん患者に限らず、身体的には特に疾患を持たない状態であっても抱える可能性がある「痛み」であるといえよう。
宗教者として社会生活を営む中で、殊に「女性である」ということで抱えざるを得ない「社会的・宗教的痛み」は、現代社会にあっても確かに存在する。かつて「八敬法」というものがあったが、筆者が属する宗派においては、尼僧の「尼」が削除され、嗣法が許され、制度上では「男女平等」になったといえる現代社会にあっても、「八敬法」に準ずる行為はそのまま残っている。筆者が住む地域にも、色濃く残っている。これこそ筆者にとっての「宗教的痛み」である。
筆者の所属宗門においては、多くの場合、尼僧と男僧は生活領域を別にしている。しかし男僧と寺族は生活領域を共有している。ゆえに、男僧と寺族の間では情報共有が行われやすいが、尼僧にはその情報が伝わらないことが多い。この点では筆者は「情報弱者」ともいうべき痛みを感受している。これも一つの社会的痛みである。
このような痛みを「ジェンダー関連痛」と呼びたいと考える。ジェンダー不平等な現状に関しては、地域差が大きいとは思うが、法要においては、年配の尼僧といえども、本山から帰って間もない男性僧侶の下に立ち、控室では尼僧が率先してお茶をいれる。このような光景はあまりにも当然過ぎて、誰も疑問視していない。法要で尼僧が後ろの方に立つのは、本山での修行経験が無いことにも起因している。進退において自信がないから目立たないように後ろに立つ。それも一理ある。これは修行段階での教育の問題でもあるし、「尼僧の本山安居」がままならない現状にも問題がある。
筆者が属する地域の青年会の集まりでも、この内容をレポートしたが、若手の僧侶の多くは、筆者の指摘した点について気付いていなかった。マザー・テレサは「愛の反対は無関心」と言ったが、まさにジェンダーに関しては、当事者以外は「無関心」に通り過ぎている。しかし、当事者(ここでは尼僧)は「社会的・宗教的痛み」を抱えたまま仏教者としての人生を終えることになる。先輩の尼僧たちがそうしてきたように、筆者自身もそのようにして人生を終えなければならないのか。
ワークショップの最後に、コメンテーターの川橋範子氏は「ジェンダーは女性だけの問題ではない」と語った。同感である。今後、社会における「ジェンダー関連痛」の解消に向けて、男女ともに語れる時代が到来することを祈るのみである。