「こころを病む」ことの意味 ― 当事者自身が経験考察(1/2ページ)
北海道医療大教授 向谷地生良氏
いま、北海道浦河町で始まった当事者研究という自助活動が国内外に広がりつつある。当事者研究は従来、いわゆる研究対象であった統合失調症などを持った人たちが、「自分の専門家、研究者」として観察眼を持って自分自身の経験を眺め、仲間や関係者と一緒に対話を重ねながら「自分に何が起きているか」を自由自在に考察し、新たな自助を創出するという極めて実践的な取り組みであり、“生活実験”でもある。
当事者研究で大切なのは、世にありがちな物事の原因を探り、解決策を考えるという方法は採らないことである。それは、「こころの病」も含めて当事者にとっては、一見、あってはならない不快で、かつ辛い出来事であっても、現象として考えるならば、同時に何らかの“大切な意味”を孕んでいる可能性があるからだ。
そもそも“病むこと”も含めて、人が生きている現実は、気象や生命現象にも似た“複雑系(complex system)”そのものであり、一方、そこには分かりにくいけれども奥深い“意味のある性質”が内包され、それが繰り返し反復されて表面化すると考えることもできる。
しかし、ここで疑問もわく。そもそも統合失調症などを持った人たちが自ら研究して得られた成果には根拠(エビデンス)があるのか、という問題である。その「根拠」に関して当事者研究の一番の強みは、「こころの病を経験した人自身がそう実感している」「効果があった」という否定しようのない“主観的事実”である。
「幻聴さんに“お帰り下さい”とお願いしたら帰ってくれた」「帰れ!と怒鳴ったら倍返しされた」という結果からは、「幻聴さんとはケンカをしない」という実践知が読み取れる。
全国各地はもとより海外(特に韓国)に広がりを見せる当事者研究は、統合失調症などを持つ“在野”の研究者から寄せられる300事例にも及ぶ研究実績という“ビッグデータ”を持つに至り、脳科学や臨床家を巻き込み、そこから新しい連携が始まっている。
精神医学やそれに関わるケアや相談援助は、人の「こころ」と「生きる」ことの曖昧さを、より分かりやすく、そして普遍的で科学的な根拠を持つことに多大な時間を費やしてきた。そして、そこから生み出された様々な理論仮説は、臨床の現場に新しい理解と方法を提示し、その都度“専門家”は流行に遅れまいと新しいアプローチの習得に励んできた。それは、決して無駄な作業ではない。
しかし、精神医療の現場に立つ私たちがまず受け入れなくてはいけないのは、専門家が新しい知識や技術を磨き、スキルアップした結果として回復がもたらされるのではないという厳然たる事実である。36年間、精神科医療の真っただ中に身を置いてきた一人として持っているのは、「理論によって救われた人はいない」という実感と、「こころの病」を抱える人の回復とは、専門家の“前向きな無力さ”によって促進され、そのことによってはじめて当事者は“自分の主人公”になることができるからである。
このことは、従来から現象学や精神病理学が追求してきたテーマとも重なる。我が国を代表する世界的に著名な精神病理学者である木村敏氏は、かねてから「薬物で動かすことの出来る表面的な症状だけに集中して、そういった症状を背後から生み出している精神の病理、自己存在の病理に対する関心などは見る影も無く失われている」(『臨床哲学の知―臨床としての精神病理学のために―』)として、脳科学と精神生物学的なエビデンスを重視し、薬物に偏重した精神科治療の現状に警鐘を鳴らし続けてきた。
特に1980年代以降、木村氏の説く世界を観念論と批判し、精神医学は“普通の医学”になることを志向し、脳科学の進歩が新薬の開発と共にこころの病の治療に新しい可能性をもたらすという期待の中で木村氏の言う「精神の病理、自己存在の病理」としての統合失調症への関心は薄れてきた。
そのような中で、当事者研究によって明らかになりつつある統合失調症などの「こころの病」は、遺伝子や分子生物学によって裏付けられた無機的なイメージではなく、私たちが忘れかけていた懐かしさに満ちた“人間の顔”を持っていた。
その意味でも、当事者研究の創出に関わり、それを育ててきた者の一人として、大げさな言い方をするならば当事者研究は、“見る影もなく失われてしまった”現象学的精神病理学の“後継者”としての役割を果たしつつ、その復権に寄与する活動であり、それが精神医療を「人間の営み」という理解に立ち返らせるための重要な契機となるような気がしている。