終戦70年に憶う ― 「忘れてはいけない」先人の願い(1/2ページ)
「宗教者九条の和」呼び掛け人世話役 小野文珖氏
昭和20年8月15日の『石橋湛山日記』を読む。
「本日正午、天皇の玉音に依って、停戦発表。午後三時より予ねての招待に依り、横手経済倶楽部の有志を支局に集め、新事態につき講演す。
○ 講演 更生日本の針路」
その講演の内容は、「新しい日本の前途は実に洋々たるものがあります」とはつらつとした態度と口調で、明るく前向きで希望に満ちた演説だったそうで、敗戦の事実に茫然自失して集った聴衆を唖然とさせたという(田中秀征著『日本リベラルと石橋湛山』)。
満60歳、日蓮宗の寺院出身のジャーナリストは、この日を待ち望んでいた。「考へて見るに、予は或意味に於て、日本の真の発展の為めに、米英等と共に日本内部の逆悪と戦ってゐたのであった。今回の敗戦が何等予に悲しみをもたらさざる所以である」(『日記』8月18日)。日本で最も早く敗戦を予見していた男であった。社長をした「東洋経済新報社」の社説に、植民地を手放せと、堂々と「小日本主義」を掲げていた硬骨の言論人で、度々の削除、発禁処分の官権からの弾圧に耐え、不屈の闘志で自由を守り抜いたリベラリストである。
「言うまでもなく日本国民は将来の戦争を望む者ではない。それどころか今後の日本は世界平和の戦士としてその全力を尽さねばならぬ。ここにこそ更生日本の使命はあり、またかくてこそ偉大なる更生日本は建設されるであろう」(「更生日本の門出―前途は実に洋々たり」―『湛山全集』)
この終戦直後の、国民への「檄文」によって、湛山氏は、言論人から政治家へ道を踏み出す。日本再建のリーダーをめざしたのである。第1次吉田内閣の大蔵大臣として新憲法に署名、鳩山内閣の通産大臣を歴任して、昭和31年12月23日、内閣総理大臣に就任する。惜しくも病のために2カ月で総辞職をするが、彼の強烈な日本再建の情熱は、戦後の日本の復興に大きく貢献したことは間違いない。特に経済面で彼のケインズ経済学の更生日本の青写真が、モデルとなったことは特筆できるであろう。ただし、国際政治面で彼の描いた理想図は頓挫している。
湛山氏は、日米中ソの「四国平和同盟」構想をもって外交の指針とした。いわゆる「平和共存」路線である。世界は冷戦時代に突入し、反対の方向に向かっていたが、彼は周恩来首相との面談で意志を統一し、ソ連のフルシチョフ首相にも呼びかけていた。「湛山は過剰な国家エゴが世界や人類を滅し、過剰な地域エゴが国を滅してしまうことを知っていた」(前掲田中秀征著)
彼の模索していた「集団安全保障」と安倍総理が強引に容認しようとしている「集団的自衛権」の行使は真逆である。湛山氏の平和共存政策は、後継首相の岸信介氏の「日米安保条約」によってほごにされた。安倍氏はその岸氏の日米軍事同盟を強化することを使命とした孫である。
しかし、冷戦はもう終わっているのである。日本国民はもう一度、湛山氏の集団安全保障に耳を傾けるべきであろう。周辺諸国との平和共存こそが、日本の歩んできた70年の道であると考えるがどうであろうか。アベノミクスに騙されてはいけない。
昨年11月16日、沖縄県知事選で初めてオール沖縄で翁長雄志氏が当選した。終戦70年の沖縄に新しい風が吹きだした。翁長氏の選挙スローガンは「誇りある豊かさを!」であった。「子や孫のために禍根を残さない」が合言葉である。10万票もの差をつけて、新基地建設を容認した自民党候補に勝利した。沖縄県民の明確な判断が下されたのだ。しかし、政府はそれに対して衆議院解散で応じた。沖縄の新基地建設はすでに過去のこと、決まったことをそのまま実行する、という態度である。かつての琉球処分と同じ構図である。この問答無用の本土の権力者に、沖縄の県民はNOをつきつけたのである。