創立100周年を迎えた「法華会」 ― 多彩な人々“宗教的交流”(2/2ページ)
本門法華宗清川寺副住職 石川清章氏
41年12月に開戦した大東亜戦争に際しては、法華会諸氏からの言説は枚挙に暇がない。特に山田博士の盟友である、文学研究者・小林一郎氏(1876~1944)は、早くも開戦翌月の42年1月から『法華』誌上に、「宣戦の詔勅」「宣戦大戦の渙発」の2編を、続いて「東亜の盟主としての日本」と題し、全7回にわたり稿を寄せている。
一見してロシアの外圧、列強の日本に対する石油など戦略資源の禁輸や日清戦争以来獲得した権益の全面放棄の要求に伴う国家的危機、十五年戦争への視座など、優れた現実感覚に導かれていることが知れる。
戦後から今日に及ぶ日米関係を考える視点の一つに、対米「自主路線」と「追随路線」が挙げられるが、会員であった石橋湛山氏(1884~1973)は、前者の代表的人物であった。経済危機の直中にある終戦直後の46年、「終戦処理費」の名目で日本政府が負担していた米軍駐留費は、国家予算の3割以上に相当する379億円にも達し、以降6年間で約5千億円、平均して2割から3割が米軍経費に充てられていた。
石橋氏は46年に第1次吉田内閣の蔵相に就任し、この問題に対して日本の立場を堂々と主張し、終戦処理費の内のあからさまな奢侈を徹底的に追及する。結果、負担は2割削減されるが、翌年にはGHQによって公職追放された。その時に「おれと同じような態度をとることだな。そうするとまた追放になるかもしれないが、まあ、それを二、三年つづければ、GHQ当局もいつかは反省するだろう」と語られた。
木内信胤先生は、創立以来の会員として聖教殿建立はじめ多くの事業を牽引したが、当代を担う経済研究者として「人間の本当の満足は何拠にあるのか」といった、宗教的見地からの箴言を残された。
東西冷戦を「西の文明の中で一種の覇権闘争をしていた」と見なし、その終焉における宗教的哲学的思考の重要性を説き、「日米構造協議」をグローバリズムの美辞に覆われたアメリカニゼーションの侵入と警鐘を鳴らし、さらに「情報過剰」時代の到来を予見し「情報処理学」の建設が提唱された。
100歳の歴史のなかで、法華会に受け継がれる社会への視座を垣間見ると、そこには、モダニズムとの対峙、大東亜戦争、戦後の日米関係における相克、日本を取り巻く現代社会の構造など、近現代における社会命題を真っ向から論じて止まない気骨が見て取れる。
法華会の信仰とは、内面世界への自己完結でも、まして世上におもねるのでもなく、社会構造を洞察し、各々の持ち場から、時代ごとの救済とも言える実践的な提言を紡ぎ得るものと推察する。
このような視座は、創立100周年宣言文の結びに、「戦後70年を間近に控えたこの時、戦後レジュームと称される様々な遺構や、国際経済システムの功罪が、歪な社会構造とともに、不和や問題を引き起こしているとの自覚のもと(中略)より積極的に、『法華経』と日蓮聖人の御教えに基づく、心の立て直しや、国柄の再建を促す」とうたわれており、今後も永らく受け継がれていくであろう。