日本の「見えない貧困」 ― 食糧支援を通し心も支援(1/2ページ)
NPO法人フードバンク山梨理事長 米山けい子氏
報道で目にする海外の飢餓や貧困の状況に、心を痛めない人はいないでしょう。私も飢餓に苦しむアフリカの子どもたちへ「お米を送る運動」をライフワークの中で16年間続けてきました。しかし、飽食の国、日本において明日の食事に事欠くような状況があったことを知ったのは、フードバンク活動に出会ってからでした。
私がフードバンク活動を開始した5年前は、山梨県内では「フードバンク」という言葉すら知る人は皆無でした。この活動を県内で行政と協働できないか、糸口をさぐるために県庁の農政部や環境、福祉部、農政事務所等を訪問しても、相談にのってくれる人は一人もいない状況でした。ある意味それは当たり前で、日本では東京の活動がメディアに取り上げられ始めたばかりで、多くの人たちは「フードバンク」という真新しい言葉に戸惑いを感じていたのが現実でした。悪戦苦闘の日々(今もその日々は続いておりますが)でしたが、その努力が報われるきっかけとなったのは、古くからの知人であった県庁職員との出会いでした。その方にフードバンク活動について話したところ、「米山さん、すばらしい活動ですね。私もできるかぎりお手伝いしますよ」という思いがけない言葉をいただきました。その方の的確なアドバイスもあって、1年後という早い段階でNPO法人の取得、事務所の開設や食品運搬用の車、人材(2人)の確保ができ、活動が広がっていきました。
活動開始から2年目のある冬の晩、一人の女性から電話がありました。4人家族で2人のお子さんと暮らしており、「明日食べるための食パン1斤買うお金もなくなってしまった。フードバンクさん、助けてください」という内容でした。4人家族でおかゆを食べて冬をしのいでいたというお話に、慌ててスタッフと2人で米やカップ麺等の食品を用意してかけつけました。驚いたことに、ご自宅は持ち家で2階建て、立派な門や塀もあり、車さえありました。しかし、家の中はライフラインが止まっていて、寒さの中、暖をとっていなくて、車も車検切れでガソリンもないとのことでした。
この出会いをきっかけに、家や車があっても明日の食事にも事欠く人々が身近な地域の中にいるのではないかと想定し、始まったのが「食のセーフティネット事業」でした。
この活動は食品ロスとなる、いわゆる「もったいない食品」を企業や農家、市民に無償で提供していただき、食糧を必要としている方々に無料で月2回、3カ月を限度に宅配便で送るシステムです。3カ月間と期限を区切っているのは自立を妨げないためですが、高齢者や一人親家庭などは、食糧支援が命綱になっており、期限を超えて継続支援している例が少なくないのが現状です。
また、活動当初から大切にしていることは、命を支える食糧支援と共に心も支援することです。心の交流のために行ってきたのがお一人お一人に宛てた手書きの手紙です。手紙と共に、返信はがきも入れています。そのはがきも活動開始からすでに1500通を超えました。返信はがきには食品送付のお礼と共に、誰にも話すことができない苦しい胸の内が書かれたものが増えています。
「品物が届きました。当日私は前日から続く偏頭痛で伏せっていました。孫は朝から玄関にハンコを用意して待っていました。ここに書くのは恥ずかしいのですが、ここ数年ほんとに大変な思いをしてきました。2年前、1日に豆腐1丁しか食べさせることができない時がありました。体の大きな孫は空腹で眠れず、夜中にフト気付くと台所でボーっと立ちすくんでいました。その姿は、今でも忘れることができません。今皆様にこうして助けていただいて本当に感謝しています」
「初めてフードバンク山梨の皆様の助けを頂きました。話には聞いていましたが、自分がその立場になるとは夢にも思いませんでした。有り難い思いでいっぱいです。私は63歳でまだまだ働けます。ハローワークでは求人票が厳しく断られる毎日ですが、やれる年齢まではいくらでもといつも考えています。一日でも早く自立し頑張って働くことこそ恩返しだと思っております。食のありがたさ、食べることが生きる元です。空腹は誰でもつらいことです。これから年越しに向かい、厳しい現状です。心も体も温かい食べものが誰でも欲しい季節だと思います(一部省略)」