植民地・沖縄からの報告 ―「基地押しつけ」で成り立つ日米安保(2/2ページ)
浄土真宗本願寺派真常寺住職 北村昌也氏
「民主主義国家・日本、ただし沖縄以外」。この言葉がまさに実感としてまかり通っている沖縄に、米軍基地を平然と置き続ける「人ごとの論理」がヤマトでは圧倒的です。しかし、これだけ沖縄に基地を集中させているから(日本国土の0・6%しかない沖縄県に、在日米軍基地の74%が集中している)、ヤマトの圧倒的多数が「シランフナー(無関心、知らんふり)」できるのです。
日米安保体制は、沖縄の犠牲の上に成り立っているのです。しかし今のヤマト社会はその犠牲から目を背け、安保の恩恵だけは享受し続けたいと願っています。ヤマトの人々は知らないのではないと思いますが、知っていても「人ごと」であって、その沖縄の犠牲を少しでも減らすために、基地を引き取ろうとは考えもしません。
そして現状が当然あるべき姿だと言わんばかりに、「沖縄の人は、お金が欲しいんだろう」とか「米軍基地がなければ、沖縄の経済は成り立たないよね」とか言い募ります。
しかし現在、基地経済が沖縄県経済に占める割合は約4%に過ぎず、また、軍就労者は9千人を切っています。また、沖縄県民の平均所得はヤマトの約7割ほど、失業率は常にヤマトの倍近くあり、米軍基地を引き受ける経済的メリットは何もなく、後には、米軍関係の事件、事故だけが残るだけなのです。
また、ある人たちは、したり顔に近づいてきて、「もっと基地反対を叫ばないとだめだ」と責任を沖縄に転嫁する人も多いのです。でもヤマトの人々は、沖縄県民が県外移設を言わなくなれば、皆「ホッ」とするのでしょう。
沖縄学の父と呼ばれる伊波普猷氏は、沖縄人の最大欠点として、「自分の利益のためには友人でも、国すら売ってしまう。たえず権力にすがって自分の生活を維持しようとする」と事大主義を指摘しています。これは数百年間、薩摩やヤマトの植民地として、差別と搾取の中で生きてゆかねばならなかった、沖縄人の生き方の知恵が、悪い方に出たものです。
最近の端的な悪例として、普天間基地の県外移設を公約して選挙に当選した5人の自民党国会議員が、幹事長のひとにらみで、辺野古容認へと公約違反しながら平気なのは、まさに伊波普猷氏が言われたこと、そのままです。
その伊波普猷氏は19世紀の那覇の隠れ念仏講、二十八日講のリーダー・仲尾次政隆の信仰の内実とその社会的実践は近世沖縄の「奇跡」という表現で絶賛しています。政隆はそれまで地域共同体の祭祀が全てであった沖縄の人々に、初めて「個の地平」を開いたのでした。そして信仰に依拠した人間としての真の生き方を、開示してくれています。私たち沖縄にある宗教者は、彼の目指した「個の確立」という生き方を学ぶべきです。
戦後70年たっても、他国の軍隊が駐留しているということは、異常な状態なのです。沖縄の人々は、それを正常な状態に戻してほしいと願っているだけなのです。私たち宗教者はこの原点を忘れてはなりません。
愛(慈悲)のないことを「無関心」と言います。そして無関心は無知を生じ、無知は差別の根元です。無関心を装わないで沖縄の真の現状を知ってください。復帰後、米軍機の墜落事故は46件で、レイプ等の事件は4700件を超えていることを知ってください。構造的沖縄差別から生じる現実の一つ一つを知ってください。それでも、沖縄だから当然だ、と言えますか。合掌