植民地・沖縄からの報告 ―「基地押しつけ」で成り立つ日米安保(1/2ページ)
浄土真宗本願寺派真常寺住職 北村昌也氏
琉球王国は1609年、薩摩藩による琉球侵略までは、中国を宗主国として朝貢するという冊封体制下にありましたが、独立国として自治権は保っていました。しかし、侵略後は薩摩藩によって自治権は奪い取られ、その後、現在に至るまで一度も自治権を回復することなく、ヤマト(沖縄県以外の日本のこと)による構造的差別の中、苦難の歴史を刻んでいったのです。
1879年、すでに薩摩藩によって植民地化されていた琉球王国は、今度は明治政府によって、暴力的に一方的に日本国に併合されてしまいました。これを「琉球処分」と言いますが、この呼び方にも沖縄に対する差別意識を読み取ることができます。
なぜなら、処分とは「罰すること、処罰」(集英社国語辞典)の意味です。しかし、当時琉球王国は何も処罰されるようなことはしていないのです。明治政府の勝手な思惑だけで、琉球王国は解体され、沖縄県とされたのです。
沖縄県として日本国に併合した明治政府は、それまで外国(琉球王国)だった故に、他府県と比べ、より徹底した皇民化教育を施すことになったのです。その結果、大宅壮一氏をして「野獣のごとき忠誠心」と言わせるほどに沖縄県民は変えられ、さらに日本人優位がたたきこまれた上に、自分たちの本当の土地でないところを、「本土」と信じこまされたのです。
琉球王国への仏教伝来は、1260年頃、出身国も宗派も不詳な禅鑑という僧の来琉が最初とされています(『中山世鑑』)。来琉当初から英祖王をはじめ、王家一族の帰依を受け、神戸女子大教授の知名定寛氏によれば、15、16世紀には「500年前、琉球は仏教王国だった」と言われるほどに繁栄を極めたのです。
その仏教は、真言宗と臨済宗でほとんどを占め、王府中枢に地位を得たり、外交官として対中国、対外国折衝の中心として活躍したのですが、一般庶民への布教伝道はほとんど行われず、ただ鎮護国家のための仏教に終始したのです。この状況が19世紀末の琉球処分の頃まで続き(この間、仏教は衰退の一途をたどります)、沖縄では鎌倉新仏教と呼ばれるような、いわゆる宗教改革は行われませんでした。ただ、例外として、18世紀から那覇を中心に、四つの「隠れ念仏講」が成立し、活動していたことは特筆に値すると考えます。
1879年の琉球処分を第1回とすれば、1952年、サンフランシスコ講和条約締結による、沖縄を切り捨てての日本独立を第2の琉球処分と言います。1971年、本土並み復帰と言われながら、米軍基地はそのまま、さらに日米安保からの犠牲を全て背負っての「本土復帰」が第3の琉球処分であり、そして今や「オール沖縄」といわれ、県知事をはじめ県内41の全ての市町村長、全ての市町村議会が反対しているにもかかわらず、地元の意思を全く無視し、アメリカのご機嫌のみをうかがって推し進めている「オスプレイ配備」と「普天間基地の辺野古移設」は、まさに植民地意識丸出しの、第4の琉球処分に他なりません(説によっては、「捨て石」にされた沖縄戦も含めて、5回の処分という考えもあります)。
いずれにしても、連綿と続く処分は、いつもヤマトの目的達成のための手段とされ、沖縄県民の意思とは無関係の中で処分されてきたのです。薩摩藩の琉球侵略から400年、沖縄はヤマトの意に従うが当然とし、沖縄の意思を聞こうとも、知ろうともしない。これを植民地政策と言わずして何と言うのでしょう。
植民地とは、植民地主義を行使されている側(沖縄)が、自ら気づき、発見し、告発するもので、今沖縄はやっとその告発をし始めたところなのです。一般の人々の大部分が、沖縄への基地押しつけ(いじめ)を自覚せず、それは日米両政府がやっていることで、「私には関係ない」と思うことが植民地主義であり、それを止めさせるには、意識化することが必要なのです。そのために、今沖縄は告発を始めます。