雲華上人の魅力を再評価したい ― 多くの詩作と墨蘭画を残す(2/2ページ)
愛知県立大非常勤講師 湯谷祐三氏
明けて1820(文政3)年春、雲華師は、瓶中の海棠に寄せてお露への熱い思いを吐露した七言絶句を山陽に贈っている。そして、5月5日、お露さんが男児を産んだという知らせが、中津に戻っていた雲華師にもたらされた。
男児はその出生日から「重五」と呼ばれ、頼山陽は「小雲華」と呼んでかわいがっている。雲華師はその歳の暮れに「始めて一男児を挙ぐ」と快哉を叫んだ。男児は京都でお露さんに育てられていたことが確認されるが、その後の消息についてはこれまで言及されることがなかった。筆者が初めて正行寺に参詣したおりにも、そのことが話題にのぼった。
爾来、調査を進めると、まず頼山陽の詩が目にとまった。すなわち、1829(文政12)年の「雲華有児曰端西行賦此為贐」(雲華に児あり、端という。西行するにこれを賦して贐とす)という七言絶句である。この題にいう、「端」こそ重五のことであると筆者は推定する。子供の出生日5月5日は端午の節句であるからだ。この推定が正しいとすれば、重五は10歳のときに西国に旅立ったことになる。
さらに、正行寺文書を拝見するうち、寺内の人員構成を記録した1836(天保7)年の『宗旨御改寺内門前帳』が見つかり、その筆頭に記された「年十七慶端」こそ、「端」の字を使うことや(「慶」は通字)、年齢が一致することから、重五のことであると考えるにいたった。
また同帳には、天保14年に書き加えられたとおぼしき「四十二つゆ」の記載もある。これらを総合すると、重五は文政12年に、お露さんは天保14年にそれぞれお寺に引き取られており、高倉学寮の講師として一年の大半を京都で過ごす雲華師に代わり、弱冠17歳の重五改め慶端師が正行寺を守っていたことがわかる。
実は、長らく男児に恵まれなかった雲華師は、既に自坊の後嗣として、実家である竹田・満徳寺より甥の大有広慶師を迎えており、頼山陽などにも紹介していた。しかるに、大有師は1833(天保4)年に早世され、講演先の越後皆応寺でその悲報に接した雲華師は慟哭に伏す。
注意すべきは、この時既に重五は正行寺に引き取られていたという事実である。つまり、雲華師は大有師が亡くなってからあわてて重五を引き取ったのではなく、大有師健在のうちに重五母子を引き取り、重五を大有師の養子という形で後嗣に据えたようである。雲華師の重五への愛情と期待を見るべきであろう。
その後、お露さんは、残された書簡などから、毎年正月から2月ぐらいまで中津で過ごし、暖かくなる3月頃より上洛して年末まで滞在する雲華師に伴って、お露さんも同行し、京都での雲華師の身の回りの世話をしていたようである。そして56歳までの生存が確認でき、60歳以前に亡くなったようだ。
重五改め慶端師は、その後、大弘慶端として雲華師の逝去を見送っている。年齢的には、現在墓塔に「聞信院釈友慶」(文久二年壬戌七月廿四日寂)とある方が、かつての重五すなわち慶端師である可能性もあるが、『宗旨御改帳』の分析からは、友慶師は慶端よりも8歳若いという数字が出ており、慶端=友慶と短絡することは躊躇される。
今のところ筆者は、慶端師は1854(嘉永7)年頃、実母お露さんに先だち35歳ぐらいで亡くなっているのではないかと推定している。このように未だ未確定な部分もあるが、寺伝では友慶師を継いだ聞慶師は慶端師の子と伝えられており、やはりかつての重五、すなわち慶端師によって、雲華上人の法脈と血脈が現在につながっていると考えられるのである。
現在、正行寺では、毎年4月の第2日曜日に「雲華まつり」を行い、上人の墨跡や墨蘭画を展観して遺徳を偲んでいる。仏学の大家としてだけではなく、文学や絵画をはじめとする様々な文事に才能を発揮し、多くの僧俗と宗派の垣根を越えて実り豊かな交流を実現した雲華上人の魅力が、今改めて再評価されることを願ってやまない。