雲華上人の魅力を再評価したい ― 多くの詩作と墨蘭画を残す(1/2ページ)
愛知県立大非常勤講師 湯谷祐三氏
豊前中津・正行寺の一代にして、東本願寺高倉学寮の講師であった雲華院大含信慶師(1773~1850)は、宗学を講じるかたわら、頼山陽や田能村竹田、浦上春琴ら、江戸後期の京都の文人と交流し、生涯にわたり多くの詩作と墨蘭画を残して、雲華上人あるいは含公などと敬称されている。雲華師が案内した中津の渓流地帯を、頼山陽が「耶馬渓」と命名したことはよく知られている。
中村真一郎が『頼山陽とその時代』の中で、いみじくも雲華師を「幕末のペトロニウス」と評したことが頭の片隅に残っていた筆者は、雲華師の墨蘭画を偶目して、そこはかとない味わいに同師への興味が倍増した。
そして、同師の漢詩集である『雲華上人遺稿』(赤松文二郎編、1933年)の読解を進めるとともに、頼山陽や田能村竹田、江馬細香など、雲華師と交遊した文人の事跡や宗派の資料を加味して詳細な年表稿を作成した。また、雲華師の自坊である中津の正行寺や名勝・耶馬渓、若き日の師が漢詩文化を学んだ日田、出生地である竹田などに師の足跡を追い、数年が経過している。
ところで、頼山陽が中津に雲華師を訪ねた1818(文政元)年は、46歳の雲華師にとって、まことに悲喜こもごもの年であった。
中津で迎えた正月には、念願の富士登山の計画が現実のものとなっており、3月には江戸へ向けて出発、同月24日には、西遊を始めた頼山陽と下関で行き会い、一瞥して東西に別れ、雲華師は一路中山道をとり、善光寺に参詣したあと、5月には江戸の中津藩邸に入る。藩主奥平昌高より歓待を受け、旧知の人々との面会もそこそこに、鎌倉を経由して、6月18日、ついに富士登頂を果たす。山頂では雪を使って揮毫し、田能村竹田のことを想起する。雲華師生涯の痛快事であった。
ところが7月、江戸に戻った雲華師に、中津に残してきた内室の訃報が届く。思いも寄らぬ出来事に急いで帰国した雲華師は、以降、先住鳳嶺師の三回忌を執行したり若き日に詩作の手ほどきを受けた日田・広円寺の法蘭師の墓所を25年ぶりに訪れるなど、この年の後半は亡き人をしのんで涙を流すことが多かった(さらにこの年には母親も亡くしているようだ)。
頼山陽が中津に雲華師を訪ねたのは、多事多難なこの一年も暮れようとする12月6日であった。個性の強い詩友と遊覧する山国川の渓谷美は、様々な感情の起伏を味わった雲華師の心中を次第に癒していったことだろう。こうして名勝「耶馬渓」が誕生した。
翌文政2年、内室を亡くした雲華師に新しい出会いが待っていた。東山の舞妓・阿露さんである。頼山陽と耶馬渓をまわった日からほぼ1年後の年末、雲華師は「舞妓阿露に贈る」という五言絶句で、彼女が机に寄りかかって婉然と微笑む様子を描いている。この歳に二人は、9月と12月の2度にわたり嵯峨に遊んだと、残された雲華師の詩句から推定できる。
9月と言えば、頼山陽の「女弟子」である江馬細香が2年ぶりに上洛し、心の恋人である師山陽と吉田山に遊んでいた。この時、雲華師も同道していたことが、残された細香の詩から判明し、おそらくお露も同席していたのではないかと筆者は考えている。
後に雲華師とお露との間に生まれた子の出生日から逆算すると、この歳の7月頃には両者の交際が始まっていたと推定されるからである。さらに、山陽と雲華師が常に行楽を共にしていることをふまえれば――そのおりの詩は残されていないが――嵯峨への遠出にも山陽と細香が同行していた可能性もある。