高齢化する釜ケ崎の人々 ― 伝道集会、孤独感を回避する場に(2/2ページ)
関西学院大社会学部助教 白波瀬達也氏
90年代から2000年代のはじめにかけて、釜ケ崎ではホームレス問題がきわめて深刻な状態にあったため、食事の提供を伴った伝道集会に対するニーズは相当に大きかった。では、ホームレス問題が一定程度改善した現在の釜ケ崎においてホームレス伝道に対するニーズは低下したのだろうか。
常識的に考えれば、ホームレスの減少に伴って伝道集会は衰退しそうなものだが、実際はそのようになっていない。生活保護の受給によって、生活が安定したかに見える人々も伝道集会に参加し続けるという状況が確認される。その中には食費を節約するために伝道集会に参加する者もいる。現に生活保護が支給された直後には伝道集会の参加者は明らかに減る。ただ、そこばかりに目を奪われると重要な側面を見落とすことになる。
今日の伝道集会の参加者には、信者意識を持っている者が一定数存在する。その一部は伝道集会の準備に尽力するなど、教会活動の担い手にもなっている。また、明確な信者意識を持っていなくても伝道集会の内容にシンパシーを持つ者は少なくない。こうした人々は特定の教会には所属しないものの、複数の伝道集会をハシゴしている。いずれにせよ、仕事をリタイアし、社会関係がますます希薄になりがちな釜ケ崎の高齢者たちにとって、伝道集会は孤独感を回避する場としても機能していると筆者は考えている。
近年、釜ケ崎に暮らす人々が公的な社会福祉制度にアクセスすることが幾分容易になり、生活環境は表面的には好転している。公的なセーフティーネットが脆弱であった時期には、キリスト教を基盤にした諸々の活動は社会福祉制度の間隙を埋める開拓的な実践を展開してきた。これらの取り組みによって、釜ケ崎に暮らす人々のギリギリの生活を下支えしてきた功績はどんなに強調しても、し過ぎることはない。しかし、今日、釜ケ崎では新たな課題がいくつか生じており、それらへの対応も必要になっている。新たな課題として筆者が注目しているのが「高齢生活と死の問題」である。
釜ケ崎に暮らす大半の人々は単身男性であり、親族との関係が希薄であることから孤独と隣り合わせである。もちろん、親族に頼ることが困難な分、地域における支え合いを大切にしている人たちはいる。しかし、誰もが相互扶助の網の目の中にいるわけではない。筆者は大阪府警や大阪市のデータから釜ケ崎では年間に約400人程度が孤独死に近い状態で亡くなっていると推察している。
釜ケ崎の著しい高齢化を受けて、近年、仏教関係者による葬送に関する活動が散見されるようになった。これらは釜ケ崎に十分に定着している状態ではないが、今後広がりを持つ可能性を秘めている。釜ケ崎では毎年、盆にカトリック司祭と仏教の僧侶による慰霊祭が行われるが、ここ数年は溢れんばかりの人々が集まるようになり、亡くなった「仲間」に対して熱心な祈りを捧げる姿が確認できる。こうしたことからも釜ケ崎に暮らす人々の死への関心の高さがうかがえる。
単身で高齢期を迎えることを悲惨なものとして目を伏せるのではなく、安心して生きることができるような基盤づくりが現在の釜ケ崎では求められている。その中で弔いや看取りといった死をめぐる諸実践が持つ意味は小さくない。こうした実践の担い手として宗教者が果たす役割が今後の釜ケ崎において大きくなっていくだろう。そしてその経験は釜ケ崎のみならず、社会的孤立が進む日本社会全体にもインパクトをもたらすものだと筆者は確信している。