現代宗教と「つながりの力」シンポに参加して ― 祈りをもって寄り添う(2/2ページ)
真如苑教務長補佐 西川勢二氏
また、公務で被災現場に入って遺体捜索にあたっているご信者、遺体確認に四国から入っている歯科医師、柏崎から福島第1原発に応援に入ることになった東電社員の家族などからも、痛切な声があがって来る。それに対する応対の状況も、刻々と本部に寄せられて来た。被災地における指導者信者、自らも被災している指導者の応対はどれも的確で、その努力にはただ頭の下がる思いであった。
寄り添って傾聴しているということは、心に衝撃、打撃を受けるということでもある。本部の喫緊の課題は、指導者信者の心のサポートであった。「接心修行」の提供はことに重要で、これもまた前例のない寺院外での接心修行を5月には臨時的に開始した。
小タイトル「祈らなくてもいい」は、「祈ることができない」という被災地信者の声に、苑主から発せられたメッセージである。「祈っているから」「みなが祈っているから」とつづく。苦難にある人に心を寄せる苑主の姿は、指導者信者の生き方に影響を与え、応対は多くの場合、おのずから個別の事情への対機説法となった。
・2年たってようやく動揺せずにふり返りができるようになってきた。
・訴訟をする、しないで地域が分断されてしまっている。
・傲慢と、ねたみ、そねみが行き交っている。
寄せられてくる声は時々刻々と変化している。
「信仰があればこそ、心のおさまりどころがある。それが感謝」ミニ苑主たる指導者信者の地を這う努力は今日にいたるまでつづき、これからもつづく。
宗教としてのつながり力は? と問われれば、このようなどちらかといえば「内々の話」に及ばざるを得ないのであるが、ボランティア活動もまた、ご信者にとっては利他行、大乗行であって、信心そのものであった。
緊急救援の時期を過ぎるとともに、保養プログラム、コミュニティーづくり支援、生きがいづくり支援など、諸団体と連携協同する活動に踏み込んだ。これらも「つながりの力」であるといえるかもしれない。一宗教団体ができることには限度がある。それぞれが手持ちのリソースを出し合って、支援活動を継続していく以外に道はない。
そうした折、「“接心”とは心を接すること」と苑主のメッセージが発せられた。
“接心”とは瞑想修行のみを言うのではない。調えた祈りをもって、被災者とも、支援者とも、そして誰とでも、心を接していけ。安らげるように、喜べるように、切り替えられるように、立ち上がれるように、現実に応じ、寄り添っていけ、ということであったろう。
自分たちが持っているものは何か? この大震災を通してあらためて見えてきた。
提供できる緊急時備蓄品があり、避難所となる施設があり、迅速に動くボランティアがある。よせられる浄財・義援金があり、持続的に活動していく熱意がある。何よりも心をささえてきた実績がある。
これら持てる力は、惜しみなく提供すべきものであろうが、では提供しようとしたとして、喜んで受け取ってもらえるだろうか? ボランティア元年といわれた阪神・淡路大震災以来のさまざまな積み重ねにより、備蓄品、避難所、ボランティアなどはもはやそれが宗教系であるかないかは、さほど問題にはならなくなっている。
義援金はもちろん喜んでもらえる。行政や諸団体との連携も、信頼関係が蓄積されつづけている。問題は心をささえてきた実績である。多くの場合、その実績は教団内におけるものであり、それを教団外に持ち出そうとするとき、その受け渡しは可能なのか? 私自身、確たる答えは持っていない。
しかし、それでも決意を述べておきたい。「心の復興」につながる支援活動は、私たちの大きな課題である。
阪神・淡路大震災の仮設住宅訪問から復興住宅訪問とつないで19年後の今日もつづけている独居者のお話相手安否確認訪問の経験もある。限度があってもできることはある。現在、数々走らせているプログラムのなかで(心身リフレッシュのための)「保養プログラム」の重要性を特に強く感じている。小さな実践であるが、このプログラムを10年間は継続していきたい。
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※注1 SeRV:Shinnyo-en Relief Volunteersの略。活動内容について本稿では詳しくは触れなかったので、http://relief-volunteers.jp/を参照していただきたい。
※注2 接心修行:真如苑における独自の禅定修行。