「いのちを支える杖」をめざして ―「今に意味を」に向き合う(2/2ページ)
いのち臨床仏教者の会事務局長 西岡秀爾氏
ブッダの教えは普遍的だが、私にとって何より支えとなっているのは、仏縁によって出会った方々からの生のメッセージである。ただ寺に生まれたにすぎない私が、宗教者として生きていく覚悟ができたのは、仏教を勉強したからでもなく、本山へ修行に行ったからでもない。苦を抱える方々との出会いによって、宗教性や人格が磨かれつつあると確信したからである。温かい人格同士の触れ合いを通して、心から「自分は自分でいい」と自己肯定できた。
そして、自ら作り上げていた聖人君子的な「僧侶像」から解放され、心が軽くなった。「死人にたかる禿鷹」「坊主丸儲け」といった宗教者に対する揶揄に萎縮することなく、人間臭いありのままの自分で勝負できるようになった。つまり、未熟で卑しい自分を心から受けとめることができて、はじめて目の前にいる人たちをそのまま見つめられるようになったのである。
自分が自分でいいように、周りの人たちもそのままでいい。多様性・特異性を認め合い、足りないところは補い合えばいい。いい意味で「良い加減」になったと思う。要するに、世間の常識に流されることなく、かといって独善的になることなく自らの内面に向き合い「我に返る」ことで得られる安心感である。
誰もがいつの間にか多くの荷物を背負っている。状況に応じてその荷物を下ろすことができれば、さほど負担は感じない。だが多くは、得体の知れない荷物を背負い続けたままやり過ごしている。自在に背負ったり下ろしたりすることができれば、いくら重くてもなんとかなる。気持ちに余裕があるからであろう。
しかし、余裕なき身には堪える。対処法の一つとして、立ち止まり背負っている重荷の中身を確認することが挙げられる。そのような際、宗教者は「気づきの場」を用意する格好のコーディネート役となる。「共祈者」「支持者」「同行者」という宗教者ならではのかかわりは、新たな価値観を生むことになるだろう。たとえ、またすべての荷物を背負ったとしても、自らの意思で背負えば足取りは軽くなる。
私たちは、競争社会による「忙」しさによって、文字どおり心を失いがちではないだろうか。そんな中、宗教は他人と比較するのではなく、一貫して自分の内面と対話する道を説き続けてきている。自らを見失わないための、また本当の幸せを追求するための、良き杖となるであろう。
そもそも心のサポートなど意図的にできるものではない。偶然に歯車が合えば、目の前にいる人の動力になることがある。しかし、それも延いては本当に適切な作用であったか否かは誰にもわからない。とは言え、その場その時の関係性による新たな力が立ち現れることを願い、「一人にだけはさせない」というひたむきな思いだけは持ち続けるべきである。そして近い将来、「かかりつけ医(身体を診る医者)」ならぬ「かかりつけ僧(いのちを支える僧侶)」があたり前となり、より包括的な寄り添いが可能になるのを期してやまない。
皆が、人生の節目節目で「生きている喜び」を感じ、さらに最期には、数々の試練を耐え忍び「生まれてきて良かった」と頷けるよう伴走したい。
現代において、宗教は果たして人々の「生きる力」となり得るか否か。宗教者自らが、目の前にいる人と向き合い、同時に自らの内面と正直に向き合い行動し続けていくしかない。向き合えば、自然と道は拓けてくるであろう。