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「いのちを支える杖」をめざして ―「今に意味を」に向き合う(1/2ページ)

いのち臨床仏教者の会事務局長 西岡秀爾氏

2014年3月6日
にしおか・しゅうじ氏=1976年生まれ。曹洞宗崇禅寺副住職。大阪府立大社会福祉学部卒。上智大グリーフケア研究所専門コース修了。日本スピリチュアルケア学会スピリチュアルケア師。2007年から病床訪問を開始。現在、中村元東方研究所専任研究員、花園大人権教育研究センター委嘱研究員なども務める。

2011年12月、超宗派の僧侶7人が集まり「いのち臨床仏教者の会」が立ち上がった。発足メンバーの特徴としては、主に老病死の問題が集中する病院や福祉施設に勤務またはボランティアとして入り、様々な苦を抱える人たちのサポートに当たっていることである。

当会の主な活動は、各々の臨床において、目の前にある生に向き合い、魂の叫びを受け取り、寄り添うこと(スピリチュアルケア)。遺族の悲嘆をサポートすること、具体的には月に1度の死別の悲しみを分かち合う会「ともしび」を開催すること(グリーフケア)。僧侶同士が分かち合える場の確保ならびにネットワークを構築すること(ピアケア)、の3点である。

臨床の場で痛切に感じるのは、苦を抱える人びとに共通する「今に意味を見出したい」という悲痛な叫びである。宗教者として、その叫びにどのように向き合い、どのように寄り添うことができるのであろうか。言うまでもなく、無条件の肯定的関心(無制限の受容とは異なる)に基づく「共感的傾聴」と「共にいること」が挙げられるが、心の問題に携わる医療従事者との違いを明らかにしたい。

◇宗教者だからできること

ささやかな臨床経験を通して、宗教者ならではのかかわりとして「共祈者」「支持者」「同行者」の三つが浮き彫りになった。

第一に、私たち宗教者は、苦を抱える人たちと共に、その方が信じる大いなるもの(神仏・先祖・自然・各々の考える絶対なる存在)に委ねる作業を共に行い、共にその安らぎ効果を体感しあう(「共祈者」)伴走的特質を有している。委ねきるという共同作業は、「苦」が分かたれ「心」が和らぐ働きがある。

また、すべてを委ねる「祈り」を基調にしたかかわりは、「なにかしなければ」と肩肘はった解決志向的・指示的なものになることなく、目の前にいるその人そのままに寄り添いやすくなる。さらに、こちら側のこだわりを手放すことで、相手のそのままの思いを聴けるようになり、その場に「解決者」としてではなく「理解者」として居続けること(not doing but being)が可能となろう。

第二に、目の前にいる人が、たとえ幽霊、祟り、死後世界、前世などいかに非科学的・非合理な話をしたとしても、否定することなく全面的に受け入れる姿勢(「支持者」)が鍵となる。どんな非科学的な話をしても受け止めてもらえるという安心感は、日常的にはなかなか味わえない。つまり、宗教者は、非合理な話を語り合うことのできる稀有な存在と言える。

世間的価値観から距離を置いた立場である。言いかえれば、医療従事者のごとく科学的分析によって「病気」を診るのではなく、非科学的であっても前世や死後をも含めたその人まるごとの「いのち」を支える視点である。死後の可能性も含め、死は決してすべての終わりではない。宗教者は、「継続するつながり」を保証する役目があろう。

第三に、目の前にいる人と偶然同時代に生まれ「老病死という苦を経験していく同士」であり、その「苦」の意味を共に探し求める仲間(「同行者」)という立ち位置である。理想としては可能な限り、無欲・無執着の実践により悟り(安らぎの境地)に近づけるよう精進すべきであろう。しかし現実としては、欲を抱えた「そのままの自分」に向き合い、「そのまま」引き受けることができれば十分ではないだろうか。

どんな自分であっても、「そのままの自分」を「そのまま」諾うこと(如実知見)ができれば、穏やかな心境になるであろう。苦により自分自身を見失うことなく、どうにか自らに由って立つことができれば、仏教で言うところの「自由(自らに由ること)」つまり、己の内なる自由がもたらされると信じて疑わない。

宗教者がかかわることで対象者の苦しみがゼロになるわけでは決してない。どうにもならない老病死を前に誰もが途方にくれるのが常であるが、共に祈り共に委ねきること(「共祈者」)、目の前にいるその人をそのまま受けとめること(「支持者」)、そして、解決者としてではなく理解者として居続けること(「同行者」)で、当事者はどんな状態であっても、「そのままの自分が尊い存在」「ただ存在すること自体に生きる価値がある」と覚り、「今ここの現実を生きる」糸口を摑むのではないだろうか。

すなわち、「苦はなくせない」が「苦を受けとめていく」ことは可能である。あくまで、教理を押しつけるのではなく、目の前にいるその人自身が内面と向き合える場作りこそが、宗教者としての寄り添いの基本ではないかと考える。

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