ルードルフ・オットーの宗教学的視座 ― 人類には「共通の宗教感情」(1/2ページ)
天理大教授 澤井義次氏
現代の宗教学において、ルードルフ・オットー(1869~1937)は、宗教学の古典的名著『聖なるもの』の著者として世界的によく知られている。彼はドイツのルター派神学者でマールブルク大の組織神学の教授でもあった。また同時に、カント的認識論を踏まえた宗教哲学を説くとともに、長年にわたりインドの宗教思想を中心とした宗教研究にも取り組んだ。
ところが、彼の宗教論をその全体にわたって理解しようとする試みは、これまで本格的に行われてこなかった。しかし近年、世界の宗教研究者のあいだで、オットー宗教論の全貌の解明へ向けて研究が進められている。オットー宗教論の理解には、彼の宗教学的視座の把握が不可欠であることが認識されるようになってきた。
この小論では、オットー宗教論に関する最近の研究動向に注目しながら、筆者が現在、取り組んでいる彼の宗教学的視座とその特徴を論じることにしたい。
世界の宗教学界では、特に1990年代以後、従来の宗教学の概念的枠組みの再検討が行われてきた。そうした学問状況の中で、オットー宗教論も新たな地平から再考されている。
オットーは宗教体験が社会、文化、人間の心理など、いかなる他のものにも還元できないことを説き、宗教の独自性を強調した。宗教をその根底から支える宗教体験の次元にまで立ち戻って、宗教の本質を捉えようとしたのである。この次元は概念的な把握が届かない、宗教の非合理的なものである。彼はラテン語の「ヌーメン」(「神性」の意味)から「ヌミノーゼ」の語を作り、宗教の非合理的な側面を表現しようとした。
まず、オットーの宗教論をめぐる近年の研究動向に注目しよう。一昨年(2012年)の10月、4日間にわたってドイツのマールブルク大において、国際会議「ルードルフ・オットー―神学・宗教哲学・宗教史学―」が開催された。この会議には、世界各国からおもなオットー研究者が一堂に集まった。会議テーマが示唆するように、オットーの宗教論をその全貌において明らかにするためには、彼の宗教論は従来のキリスト教神学や宗教哲学の視座ばかりでなく、宗教学的視座からも捉え直すことが不可欠であることが確認された。
この国際会議に、わが国からは『聖なるもの』の訳者、久松英二教授(龍谷大)と筆者が招かれた。久松教授はわが国のオットー研究の現状について講演した。筆者はオットーのインド宗教思想への宗教学的視座に関する講演を行った。筆者の講演後、オットー研究で世界的に知られるマルティン・クラーツ博士(元マールブルク大宗教博物館長)や会議の主催者のヨルク・ラウスター教授(マールブルク大)、グレゴリー・アッレス教授(米国・マックダニエル大)から、オットーの宗教学的視座に関する研究の重要性をご指摘いただいた。この国際会議の成果は昨秋、『ルードルフ・オットー』(Rudolf Otto, De Gruyter社刊)として出版された。
さらに昨年(13年)の11月下旬、米国のボルティモア市で開催されたアメリカ宗教学会では、グレゴリー・アッレス教授が中心となって、パネル「ヌミノーゼの系譜」が企画された。筆者もパネリストの一人として招かれ、オットーの宗教学的視座についてペーパーを読んだ。ところで現在、『オットー書簡集』の編集が、クラーツ博士を中心に進められている。この書簡集が出版されると、オットー宗教論への理解がいっそう深まるであろう。
オットーはキリスト教神学や宗教哲学研究ばかりでなく、宗教学的研究、特にインド宗教思想研究も行った。彼がインド思想に関心を抱くようになったのは、1911年のインドへの旅以後であった。その後、キリスト教思想と比較研究しながら、ヒンドゥー教思想の掘り下げた研究にも取り組んだ。そうした代表的な著書には、『西と東の神秘主義』や『インドの恩寵の宗教とキリスト教』のほか、『ヴィシュヌ・ナーラーヤナ』や『ラーマーヌジャの思想』などがある。