ルードルフ・オットーの宗教学的視座 ― 人類には「共通の宗教感情」(2/2ページ)
天理大教授 澤井義次氏
1911年10月初旬から翌年7月末にかけて、彼はアジアへの旅に出た。その旅の中で、インドや日本の宗教文化に触れ、ヒンドゥー教や仏教を知った。そのことで、東洋と西洋の宗教の歴史的展開における「平行性」の視座を具体的に意識するようになった。人類は「共通の宗教感情」を共有しており、世界の諸宗教の思想やその展開はパラレルをなしていると彼は考えた。たとえば、オットーが主著『西と東の神秘主義』において取り上げたのは、東洋と西洋の「神秘主義」の中でも、特に古典的な二つの主要類型、すなわちインドのヴェーダーンタ哲学者のシャンカラとエックハルトの思想であった。
オットーの宗教理論の中核には、「絶対他者(全く他なるもの)」の宗教概念がある。オットーのいう「絶対他者」とは、聖なるもののアプリオリで非合理的な本質、すなわち「ヌミノーゼ」の体験を有機的に構成する要素の一つである。古ウパニシャッド思想では、「絶対他者」としての最高実在ブラフマンは「[表現不可能な]驚き」であると彼は言う。それは「非ず、非ず」という否定的な言説によって表現され、「まさに唯一であり、第二のものがない」。彼はウパニシャッドの「絶対他者」がキリスト教の「神の単一性」を明示していると捉えた。
ところが、古ウパニシャッド思想には、キリスト教が前提とする超越神と人間存在の関係構造は存在しない。それはウパニシャッドの存在論的な本質が、シャンカラが強調したように、最高実在ブラフマンと個的存在の本質としてのアートマンの一体性にあるからである。このことは、オットーが古ウパニシャッド思想にキリスト教の一神教的な意味あいを読み込んで、インド思想を解釈しようとした具体例の一つである。
オットーはウパニシャッド思想のこうしたテクスト解釈によって、インドのヒンドゥー教思想をキリスト教思想との「平行性」において捉えようとした。彼はシャンカラが説いた高次の無属性ブラフマンを、低次の有属性ブラフマンすなわち人格的な主宰神の過度の高まりとして捉え、そのうえで世界と人間存在のあり方を理解するという有神論的な解釈を提示した。
さらに彼が、インド思想の中で関心をもったのは、シャンカラの思想ばかりでなく、最高神ヴィシュヌへの真摯な信仰、すなわちバクティ(信愛)を強調したラーマーヌジャ(1017~1137伝承)の思想であった。彼はラーマーヌジャの思想がキリスト教の思想とパラレルをなすと捉えた。
インド宗教思想をめぐるオットーの宗教論には、彼の神学的あるいは宗教哲学的視座がかなり反映している。ただ、彼の宗教論をその全貌において理解するためには、彼の宗教学的視座も有機的に連関させた研究が不可欠であろう。これまで論じたオットーの宗教学的視座をめぐる諸問題は、従来の宗教学的な諸概念や枠組みを、それぞれ個別の宗教文化的脈絡の中に位置づけて、意味論的あるいは解釈学的に捉え直すという宗教研究の課題を示唆していると言えるであろう。