森鴎外の『日蓮聖人辻説法』― 荘重な美しさ狙った芝居(2/2ページ)
立正大文学部准教授 矢内賢二氏
それまで同時代演劇といえばまず歌舞伎しかなかったところに、新派、翻訳劇、さらにその影響を受けた新劇と、新興勢力が続々と現れた時代だった。百家争鳴、誰もが日本演劇の未来を手さぐりしていた。そんな状況を半歩引いたところから見つめながら、鴎外の示した新しい演劇のサンプルは、とにもかくにもその「新しさ」で一石を投じた、ということだろう。
この作品が初演された明治37年は、日露戦争の勃発した年でもあった。当時陸軍第二軍軍医部長だった鴎外は広島に駐屯しており、上演の初日から20日後には、宇品港から戦地に向けて出征している。
実は善春が日蓮を信頼する重要なきっかけとなっている「他国侵逼難」という考えは、鎌倉の辻説法より後、1260(文応元)年に成立する『立正安国論』に書いてある。この作品の舞台設定とは年代が合わない。ということは、鴎外が年代違いを承知の上でわざとここに組み込んだわけで、これが開戦直後の日露戦争を意識した創作であることは疑う余地がない。『半七捕物帳』の岡本綺堂は「蒙古襲来が一首(ママ)の背景をなしていて、日蓮が他国侵逼難を説くあたりは、やや時局を匂わしている感がないでもなく、劇場当事者もその意味から採用したらしいようであったが」と当時の人々の受け止め方を証言しているし、比企能本を演じた片岡市蔵も、「『高麗の王微力なれば』云々といふ白が今日の時節抦に当つて居て、誠に結構な文句でありますから、一々その白に力を入れてやつて居るのでございます」と、わが国の対外危機を訴えるせりふに鼻息を荒くしている。やはりどうしたって背後には戦争がちらついて見える芝居だったらしい。
これをとらえて、この作品は戦意高揚を目的として書かれたものだとする説がある。しかしいくら軍人とはいえ、鴎外がそう軽々しく戦争の旗振り役を買って出たかどうかは疑わしい。芝居という、観客を相手にしたナマモノの中での、いわばちょいとした目配せのようなものではなかったか。ことさらに戦時感情を煽ろうという意図よりも、むしろ日蓮というきわめて個性的な人間像への共感を読み取っておくべきではあるまいか。
鴎外が軍医の最高位である軍医総監にまでのぼりつめるには、軍部という巨大な組織の中で、わずらわしい摩擦や対立をいくつも経験したことが知られている。軍服姿で歩いている時に気軽に話しかけてきた友人を怒鳴りつけた鴎外であり、日露戦争に対する感想を求められたとき、軍人として特に言うことはないが強いて言えば「悲惨の極」、とコメントを残した鴎外であった。史上稀な軍人兼文学者の鴎外が戦争というものに向き合う時の、その何重にも屈折した感情は、われわれのなまなかな想像が及ぶものではないだろう。
若き日の鴎外は論争好きで知られていた。納得できない意見にはありったけの理屈を並べて突っかかっていく戦闘的なタイプだった。日蓮はあらゆる権威に気圧されることなく、どこまでもおのれの言葉を武器に時代と切り結んだ。信じる言葉をまっすぐ人々に投げ続けた日蓮の姿に、鴎外はほのかな憧れを抱いていたのではないだろうか。