森鴎外の『日蓮聖人辻説法』― 荘重な美しさ狙った芝居(1/2ページ)
立正大文学部准教授 矢内賢二氏
森鴎外は近代日本を代表する文豪として名高いが、彼が演劇にも深い関心をもっていたことはあまり知られていない。ゲーテ、イプセン、レッシングなど、ヨーロッパの戯曲を次々に翻訳し、またドイツで学んだ最新の演劇学の理論を日本に紹介した。いわゆる「新劇」が日本に生まれるにあたっての大恩人である。
のみならず、彼は自身でも何本かの脚本を書き、実際に劇場で上演されてもいる。その一つが、1904(明治37)年4月に上演された『日蓮聖人辻説法』。その名のとおり、日蓮が鎌倉に草庵をむすび、道行く人々に辻説法を行ったという逸話をもとにしている。
時は1255(建長7)年正月、舞台は鎌倉小町の大路。比企能本の娘妙は進士善春と恋仲だが、善春が他宗を攻撃してやまない日蓮を敵視するので、日蓮を篤く敬う能本は二人の仲を許さない。善春は辻説法を行う日蓮に問答を挑むが、日蓮は近く蒙古の侵略による「他国侵逼難」のあることを述べ、善春を説き伏せる。善春はついに日蓮に帰依し、これを見た能本は妙との仲を許す。
初演時の主な配役は、日蓮に七代目市川八百蔵(後の七代目中車)、善春に十五代目市村羽左衛門、妙に六代目尾上梅幸。大正期の名コンビとして知られる羽左衛門・梅幸はまだ売り出し盛りの若手役者で、さらに青年時代の六代目尾上菊五郎と初代中村吉右衛門が脇役で顔を出している。
今では日蓮の伝記を扱った芝居が上演される機会はほとんどないが、昭和初期頃までの浄瑠璃や歌舞伎では、日蓮にまつわるエピソードを脚色した「日蓮記物」と呼ばれる演目がコンスタントに上演されて人気を集めていた。そのおなじみの題材を取り上げて、すでに文壇の大御所だった森鴎外が自ら腰をあげ、日本演劇に新機軸を示すべく新しい芝居を提供してみせた。
評判はどうだったか。新聞の劇評では「情熱なし、想像なしといふことは鴎外氏が作物を通じて受くべき非難ならん」「彫琢刻苦の美文として世に残るを以て満足せざるべからざるなり」と叩かれた。ただ美辞麗句が並んでいるだけで、お芝居らしいドラマチックな筋立てがちっともないじゃないか、という攻撃である。
従来の歌舞伎では、複雑にからんだ義理人情に熱い涙をしぼる場面が、あるいは敵討ちや連続殺人のように、手に汗握る異常な事件が登場するのがお定まりだった。ところが『日蓮聖人辻説法』にはそれがない。
善春。 さらば御身の法とするは。
という調子で日蓮と善春の交わす問答が唯一盛り上がるといえば盛り上がる場面だが、漢語の多い難しい問答や、登場人物の交わす全編いかにも雅な会話が、それまでの歌舞伎のように、観客の胸をどきどき高鳴らせたとは思えない。
一方で小説家の正宗白鳥は、「今の芝居好きはこの劇のやうに上品なムダのない、刺激的挑発的の科白のないものではアツケなく思ふであらうが」と先回りをしたうえで、「演劇をして識者の観覧に供し又教訓の具とするには」こうでなくてはなるまい、と、しかつめらしい顔で全面的に鴎外の肩をもっている。
坪内逍遥は「格式」があっていい、と評し、上田敏は「日蓮の独白を聴けば荘重の詞華口を衝いて出で来り、一種厳粛の感に打たれるではないか」「此曲に所謂動作の変化少ないのは勿論始より期する所、目的とする所である」と書いた。
つまり「お芝居ならではの非日常的な刺激が足りないじゃないか」という非難に対して、当時の文学者たちはこぞって「いや、そもそもこれはそういう芝居ではない、荘重な美しさを狙った芝居なのだ」と反論しているわけで、どうもあまり噛み合った議論とはいえない。