明治期の真宗大谷派婦人法話会 ― 仏教教団と女性の国民化(2/2ページ)
大阪大谷大文学部教授 岩田真美氏
かくして「愛国婦人会」は兵士救護や遺族支援を目的とし、皇族や華族、政治家の妻などが発起人となって創設された。初代会長は岩倉久子(宮内大臣・岩倉具定の妻)が務め、総裁には皇族の閑院宮載仁親王妃智恵子(三条実美の次女)が就任することになる。大谷光演の妻の章子(三条実美の三女)も発起人の一人として名前を連ねた。「愛国婦人会」は日本赤十字社とも連携した活動を行っており、日露戦争後には会員70万人を超える日本最大規模の婦人団体へと発展していく。奥村五百子は会員募集のために各地を遊説したが、大谷派関係者が宿を提供するなど支援しており、初期の「愛国婦人会」役員は大谷派「貴婦人会」の役員とも重なっていた。
1907(明治40)年4月10日に行われた大谷派の「婦人法話会」の春季大会において法主の大谷光瑩は、「愛国婦人会が、忠君愛国を標榜する会合なるが故に、国民多数の加入増員を見ると同じく、我大谷派婦人法話会も、一面に於ては王法為本仁義為先の教旨に従ひ常に天恩国恩の辱きことを感戴し、忠孝仁義の道を実行躬行することとなれば、此方面に於ては、更に愛国婦人会と異なることはない、されば忠君愛国に志あるものは、広く自他宗を論ぜず、本会に加入増員して、彼の愛国婦人会と相俟って、益々御国益の為めに尽さねばならぬ。」(『真宗大谷派婦人法話会五十年史要』1941年、38㌻)と発言している。
すなわち日露戦争後の「婦人法話会」と「愛国婦人会」は密接に関わっていたものと考えられる。両者とも関東大震災後には復興支援、救貧活動、女性の就職支援など幅広い活動を行うようになっていくが、こうした婦人団体における社会福祉のはじまりは戦時福祉と結びついていたことが指摘できる。戦争によってナショナリズムが高揚した時期に、愛国的な活動に従事することにより、女性の社会参加の道が切り開かれていった。しかし、それは男性の兵役とは違う、女性なりの方法で「国民」の一員であることを示すことにつながった一方で、家父長制的なジェンダー秩序をつくりあげていくこととなった。
また「愛国婦人会」の大阪支部では、女性実業家の先駆けである広岡浅子も中心メンバーとして活動していた。五百子の友人でもあった浅子は、1905(明治38)年頃から軍人遺族の女性らを貧困から救うための授産事業として「裁縫」を教えることを提案し、大阪支部で職業訓練や教育を行っていた。
現在、筆者が勤務する大阪大谷大学も大谷派の「婦人法話会」の大阪支部の活動として、09(明治42)年に創設された「大谷裁縫女学校」を起源としている。創設者は大谷派僧侶の左藤了秀であった。06(明治39)年には「婦人法話会」大阪支部の発足に関わり、09年に女学校の設立を建議したことで難波別院(南御堂)境内に「大谷裁縫女学校」が設置された。当時の女子教育は中上層の女性を対象とすることが多かったが、「裁縫」を重視していたことは下層社会の女性への教育も念頭に置いていたからだと思われる。
当時において「裁縫」は、「家庭」をおさめるのに必要な能力であったのみならず、働き手の家族を失った場合に女性が自立して生きるための技能でもあった。農家の次男として生まれ、苦学して僧侶になった左藤了秀は、格差社会や女性の貧困問題に関心を寄せていたものと思われる。また明治期の東西両本願寺教団においては男子教育と比較して、女子教育は重視されておらず、「大谷裁縫女学校」をはじめとする仏教系女学校の多くは本山からの支援ではなく、各地域の有志の僧侶や門信徒たちの尽力、資金援助によって成り立っていた点も見落としてはならない。
近代日本仏教史においては、男性の僧侶や知識人の思想が取り上げられ、戦時教学の研究も進められるなかで、仏教婦人会による軍事援護については注目されてこなかった。また近代仏教は「個」の内面の信仰を重視する特徴があると指摘されてきたが、教団や寺院においては「家」を中心とした教化活動が行われており、そのなかで女性教化が重視されるようになっていった。
ここでは浄土真宗の婦人会運動を中心に検討してきたが、仏教教団による女性教化は「近代家族」の形成、国民のジェンダー化に大きな影響を及ぼしてきたのではないだろうか。今後さらに研究を進めていきたい。それは近代日本におけるジェンダー規範の形成に、宗教がいかに関わったかを問い直す試みにつながるだろう。