PR
購読試読
中外日報社ロゴ 中外日報社ロゴ
宗教と文化の専門新聞 創刊1897年
新規購読紹介キャンペーン
PR
第21回涙骨賞募集 墨跡つき仏像カレンダー2025

語り継がれるもうひとつの神武天皇陵(2/2ページ)

成城大教授 外池昇氏

2024年2月29日 09時10分
文久の修陵とその後

順序からすれば、この後に文久の修陵に際しての孝明天皇の「御沙汰」により「神武田」が神武天皇陵とされ、それと同時に「塚山」は神武天皇陵ではなくなったことになる。ところがその「御沙汰」には、「丸山」も粗末にしてはならないと付記されていた。「丸山」は決して全否定されたのではなかったのである。そしてその「丸山」への関心は明治に入っても止まなかった。そのことは幾つかの史料によって確かめられるが、ここではまず陵墓の考証書を多く著した大澤清臣の『畝傍山東北陵諸説弁』(明治11〈1878〉年)をみる。そこには「猶いかにそやと疑ふ人もありとか」と未だに「神武田」の神武天皇陵に疑問を持つ向きがあるとしたうえで「黙視もえあらて先輩の考説の要を撮出て其の当否をかつ/\弁へて」とし、神武天皇陵「神武田」説が正しいことを学者の説を引きつつ述べる。このことは当時「丸山」説がなお根強かったことをかえってよく示すものである。次に橿原神宮の第7・11代宮司菟田茂丸『橿原の遠祖』(昭和15年、平成28年に橿原神宮庁により覆刻)から引く。同書は明治12~13年頃のこととして、「畝傍山東北陵(引用註、神武天皇陵)を山麓の桜川をへだてた平地に御治定になつてから未だ日も浅く、御陵の御所在については、一方に畝傍山東北陵の中腹、丸山塚(引用註、「丸山」のこと)の主張者の熱意も、まださめてゐない折柄でありました」とする。つまり、神武天皇陵が「神武田」に治定された文久3年から17~18年経った後でも、「丸山」を神武天皇陵とする考えは消えていなかったというのである。

私は、このことをこれまで「丸山」説を唱えていた本居宣長や蒲生君平等の著作の説得力やその高い知名度によるものと考えていた。そして先日、講談社選書メチエから刊行された『神武天皇の歴史学』でもそのように書いた。もちろんそれはそれで極めて妥当な結論なのではあるが、今度は、土地の歴史や地理を世代を越えて語り継ぐ山本村や洞村の人びとに焦点を当てて史料を読んでみようと思うようになった。

具体的にみてみよう。まず「神武田」についていうと、「神武田」「じぶの田」が「民」「所の人」「下方」による呼び方だというが、それは実際にはどのようなことなのであろうか。「神武田」「じぶの田」とはいかにも神武天皇を想起させる名称であるが、その由来はどこに求められるのであろうか。そして「丸山」についていうと、とにかく名称が大いに変転する。すなわちすでにみた通り、『陵墓志』は同地を「字カシフ」とするとともに「土俗今御陵山ノ名ヲ知ル人ナシ」とし、『玉勝間』は「字加志」と、『山陵志』は「御陵山」と、『卯花日記』は「白土のハナ」「岩鼻」とする。『打墨縄』は「字丸山」とするとともに「今其御陵山ヲ尋ヌルニ知人ナシ」とするのである。

いったい「神武田」とされた地はどのような人びとによって「神武田」「じぶの田」と呼ばれていたのであろうか。またそれはなぜなのであろうか。そして「丸山」とされた地はどの名称が正しいのであろうか。あるいはもともと正しい名称などなかったのであろうか。まさにこれらの疑問は、今後の神武天皇陵の研究にとっての新たな課題である。

『顕正流義鈔』にみえる真慧上人の念仏思想 島義恵氏11月20日

真慧上人について 高田派第十世である真慧上人(1434~1512)は、第九世定顕上人の子息として誕生した。その行実は『代々上人聞書』『高田ノ上人代々ノ聞書』や、五天良空が…

日蓮遺文研究の最前線 末木文美士氏11月14日

1、遺文研究の集大成 近年の日蓮遺文研究の進展には目を見張らされるところがある。とりわけ日興門流に連なる興風談所は、御書システムの提供や、雑誌『興風』及び『興風叢書』の刊…

瑩山紹瑾禅師の俗姓について 菅原研州氏11月5日

曹洞宗で太祖と仰ぐ、大本山總持寺御開山・瑩山紹瑾禅師(1264~1325)の俗姓について、現在の宗門内では「瓜生氏」として紹介されることが多い。しかし、江戸時代までの史伝…

勤労感謝の日 仏教における労働の意義(11月20日付)

社説11月22日

古文・漢文の教育 文化的含蓄を学ぶ意義(11月15日付)

社説11月20日

災害ボランティアの課題 現地のコーディネートが要(11月13日付)

社説11月15日
このエントリーをはてなブックマークに追加