語り継がれるもうひとつの神武天皇陵(2/2ページ)
成城大教授 外池昇氏
順序からすれば、この後に文久の修陵に際しての孝明天皇の「御沙汰」により「神武田」が神武天皇陵とされ、それと同時に「塚山」は神武天皇陵ではなくなったことになる。ところがその「御沙汰」には、「丸山」も粗末にしてはならないと付記されていた。「丸山」は決して全否定されたのではなかったのである。そしてその「丸山」への関心は明治に入っても止まなかった。そのことは幾つかの史料によって確かめられるが、ここではまず陵墓の考証書を多く著した大澤清臣の『畝傍山東北陵諸説弁』(明治11〈1878〉年)をみる。そこには「猶いかにそやと疑ふ人もありとか」と未だに「神武田」の神武天皇陵に疑問を持つ向きがあるとしたうえで「黙視もえあらて先輩の考説の要を撮出て其の当否をかつ/\弁へて」とし、神武天皇陵「神武田」説が正しいことを学者の説を引きつつ述べる。このことは当時「丸山」説がなお根強かったことをかえってよく示すものである。次に橿原神宮の第7・11代宮司菟田茂丸『橿原の遠祖』(昭和15年、平成28年に橿原神宮庁により覆刻)から引く。同書は明治12~13年頃のこととして、「畝傍山東北陵(引用註、神武天皇陵)を山麓の桜川をへだてた平地に御治定になつてから未だ日も浅く、御陵の御所在については、一方に畝傍山東北陵の中腹、丸山塚(引用註、「丸山」のこと)の主張者の熱意も、まださめてゐない折柄でありました」とする。つまり、神武天皇陵が「神武田」に治定された文久3年から17~18年経った後でも、「丸山」を神武天皇陵とする考えは消えていなかったというのである。
私は、このことをこれまで「丸山」説を唱えていた本居宣長や蒲生君平等の著作の説得力やその高い知名度によるものと考えていた。そして先日、講談社選書メチエから刊行された『神武天皇の歴史学』でもそのように書いた。もちろんそれはそれで極めて妥当な結論なのではあるが、今度は、土地の歴史や地理を世代を越えて語り継ぐ山本村や洞村の人びとに焦点を当てて史料を読んでみようと思うようになった。
具体的にみてみよう。まず「神武田」についていうと、「神武田」「じぶの田」が「民」「所の人」「下方」による呼び方だというが、それは実際にはどのようなことなのであろうか。「神武田」「じぶの田」とはいかにも神武天皇を想起させる名称であるが、その由来はどこに求められるのであろうか。そして「丸山」についていうと、とにかく名称が大いに変転する。すなわちすでにみた通り、『陵墓志』は同地を「字カシフ」とするとともに「土俗今御陵山ノ名ヲ知ル人ナシ」とし、『玉勝間』は「字加志」と、『山陵志』は「御陵山」と、『卯花日記』は「白土のハナ」「岩鼻」とする。『打墨縄』は「字丸山」とするとともに「今其御陵山ヲ尋ヌルニ知人ナシ」とするのである。
いったい「神武田」とされた地はどのような人びとによって「神武田」「じぶの田」と呼ばれていたのであろうか。またそれはなぜなのであろうか。そして「丸山」とされた地はどの名称が正しいのであろうか。あるいはもともと正しい名称などなかったのであろうか。まさにこれらの疑問は、今後の神武天皇陵の研究にとっての新たな課題である。