西本願寺「新領解文」論争 ―“Golden Chain”との比較を通しての評価―(2/2ページ)
武蔵野大名誉教授 ケネス田中氏
二つ目の《少しずつ 執われの心を 離れます》に対しての批判は、「煩悩具足の凡夫が執われの心を離れることはできなく、もしそうであれば、阿弥陀仏が本願を立てる理由すらなかった」という趣旨に基づいています。このような信心・往生という出世間的視点から評価するのであれば、私も賛同します。しかし、日常の生き方の変化という視点から評価すれば、親鸞は『御消息』に次のように認めています。「愚かなる無明の酔いも次第にさめ、むさぼり・いかり・おろかさという三つの毒も少しずつ好まぬようになり、阿弥陀仏の薬をつねに好む身となっている」
ここでの「さめ(る)」とは、ここで題問となっている「離れる」を指すと言えます。例えば、会議中に不当な理由で厳しく批判されたら、怒りという煩悩が当然生じることでしょう。しかし、阿弥陀仏の薬を好む身となった者が、その怒りに流されず、冷静に対応することは可能であり、これこそ「執われの心を離れる」ということだと思います。このように日常生活を幸せにしてくれることこそ、多くの現代人が宗教に求めているのだと思います。
三つ目の批判は、最後の《穏やかな顔と 優しい言葉 喜びも 悲しみも 分かち合い日々に 精一杯 つとめます》が示唆する行為や社会的活動が自力的であるということです。しかし、このような生きる姿勢の変化は、「常行大悲」や「信心の具徳」などが示すように、信心を体得した者には自然に現れて来るのです。さらに、深川宣暢氏(本願寺勧学)も示しているように、自力・他力の議論は、往生・成仏(証果)の行・信(因法)に関してのみに値するので、それ以外の社会活動などの行為は問題とはならないのです。
「新領解文」は“Golden Chain”と同様に、山の麓の人たちが対象であるので、最初挙げた三つの評価基準は大まか満たされています。その一つの「『信心』を正しく分かりやすく伝える」についても、改善の余地はあるけれども、“Golden Chain”より詳しく述べています。
さらに“Golden Chain”のように、日常生活の領域を意識していることで、私が真宗の弱点であると思われる生活論を充実しようとする意図がうかがえます。もちろん、信心や往生という出世間的な教えが最も大切であるが、現代人の多くが求めているのは「日常生活の改善」だと思います。これは、例えば先進国でのマインドフルネス瞑想の大人気が物語っています。この傾向は、私が行っている講座の欧米人受講生たちのアンケート回答にも顕著に表れているのです。
そして、有名な「二河白道」の喩を採用すれば、危険で狭い白道を歩む求道者にとって、ただ一心不乱に渡るだけでなく、困難に満ちた日常のための「手摺り」を設ける必要性が示されていると言えます。このように「現世」の日常のニーズに対応できれば、既に「来世」に関して卓越した教えを有する浄土真宗は、もっとトータルな充実した答えを現代人に提供できると考えます。
教団内の運営に関わることですが、「新領解文」は、他の教章文と並んで採用されれば良いと思います。その際、伝統的に「領解文」とは「信心の個人の受け取り方」として理解されているので、別な名前を付ける方が妥当ではないでしょうか。
最後に、これほどの反対があるのですから、双方が「執われの心を離れ」、大いに議論し、宗門の過半数が納得できるものに修正するべきです。その際、「新領解文」の目的である「時代状況に応じた伝道方法」をもっと充実させなければなりません。それを願って、宗門の一員としてまた仏教徒として、何らかの力になりたいと念っています。