瑩山禅師によって明らかになる曹洞宗の宗旨(2/2ページ)
曹洞宗善龍寺住職 竹内弘道氏
しかし、現在読み返せばその説は「親鸞上人が絶対他力で、凡夫になり切れといふも、容易になり切れない処に信が要求せらるる如く、仏になり切れといふ道元禅師の本証の安心に於ても、人が凡夫になり切れないと同一の力を以て仏になり切れないので、正伝の仏法も亦信を要求する」(222頁)と述べるがごとく、悟ることに「絶望」した研究者によって作り上げられた牽強付会の説であったことが明らかである。衛藤氏が著書の中で禅を「信の仏教」であるとした典拠は、すべて悟りへの道すじを説いた文脈から、自説に都合のいい「信」を説く部分だけを切り取ったものであることが指摘できる。
この「信の仏教」はやがて榑林皓堂氏(1893~1988)に継承され、さらに「悟り無用論」にまで進められている。氏は道元禅師の著書に「悟証を目標として坐禅せよ、という如き、まぎらわしき言葉が出てきても、文字通りに考えてはならない。」(『道元禅の思想的研究』14頁)と言い、さらに「自性清浄なることは、釈尊の正覚によっても、また諸経論によっても証明されている。とすれば今さら改めて見性ー自心の性を確かめるまでもないことである。すでに先哲によって確証されていることを再び検討しなおすには及ばぬ。」(『道元禅の研究』36頁)とまで述べるに至っている。
以上、筆者の「宗旨」に対する疑問については、道元禅師の言葉の中にすでに答えは存在し、むしろ教えられた「宗旨」のほうに不備があったことを明らかにしてきた。
しかし、筆者にはまだ、それでも道元禅師の教えに対して残された疑問があった。おそらくそれらは、多くの宗門僧侶も共有するものだと思われる。それらは(一)坐中の悟りの境界(自受用三昧)と打坐による開悟の関係であり、二つの悟りは別物なのか、双方の関係をどのようにとらえるべきか。(二)坐中の悟りの境界(自受用三昧)と行持の関係をどのようにとらえるべきか。行持は仏行であるからそれだけでこと足れりとするのか。坐中の自受用三昧とは関連を持たないのか。(三)仏行としての行持と開悟の関係をどう考えるべきか。行持から開悟への道筋は道元禅師は明らかにされていないのではないか、ということである。
そして、これらの疑問に対する答えは、岩手県奥州市の正法寺に伝わる『洞谷開山瑩山和尚之法語 示妙浄禅師』(以下『洞谷開山瑩山和尚之法語』)の中に全て示されていたのである。
瑩山禅師は『洞谷開山瑩山和尚之法語』の中で「知に二つの道がある」と、悟りについて示されている。その一つは坐禅中に味わう悟りの境界であるが、注目すべきは「縦へ又、得ざる人も、此の法に安住すれば、知にも属せず不知にも属せずして已に自ら道者と成るなり、」(原漢文片仮名混淆体)と、坐中の境界について「たとえ、また、(悟りを)得ていない人も」とおっしゃっている点である。この一言によって私たちは、坐中に味わう悟りの境地、自受用三昧は、いまだ大悟の確信に至っていない者でも、誰もがひとたび坐禅をすれば味わうことができる悟りの境地であるということを知ることができるのである。
そして二つ目の知とは、坐禅から離れた日常生活において、機縁をえて得る確信としての大悟である。瑩山禅師は「行住坐臥の間、凡そ一切の作業の時、打ち置く処なく、措かず、忘るる事なく、不思量の所を思量し」と、坐禅中の不思量底の思量を、そのままにせず、さしおかず、いつも「心を着けて思量」せよと示されているのである。そして、人が大悟に至る契機についても、稲妻が光る瞬間、雷鳴に耳が塞がれるとき、名を呼ばれて振り返ったとき、足で物を踏み、痛みが全身を貫いたとき、落馬の瞬間など、実に具体的に懇切に示されている。
ここに私たちは、行持から悟りに至る道すじが明らかに示されていることを知ることができるのである。そして同時に、宗門の悟りとは、坐れば誰もが味わうことのできる自受用三昧と、その坐中の境界を瞬時も忘れることなく修行することにより、機縁をえて至る大悟と、いわば二段構えの悟りであることを知ることができるのである。
道元禅師と瑩山禅師、両祖を貫く「宗旨」をまとめるならば「仏道を信じ、坐禅の実践のつど、澄み切った、諸仏と等しい境界を味わい、日常の一切の行為において、常にその境界を忘れることなく功夫し大悟する。」ということになろう。
衛藤宗学・榑林宗学の桎梏から解き放たれ、両祖を貫く宗旨とは何であるのか、両祖の違いと特徴はどこにあるかと、虚心に問いかけ、誰もが納得できる新たな「宗旨」を構築する時代がようやく訪れたのではないかと感じている。