中世三河、浄土宗西山深草派教団の展開(1/2ページ)
愛知県幸田町教育委員会学芸員 神取龍生氏
「浦部変相寺深草一派の根元なれとも著廃退轉せるうへハ當寺は三河一国深草の根元なり」
これは浄土宗西山深草派紫雲山西方寺(愛知県額田郡幸田町大字久保田)に伝わる、創建に関する伝承である。同寺3世太翁真慶(?~1526)が残した文言で、16世龍空蟠海が1758(宝暦8)年に過去帳を整理した際、そのまま転記したことで現在まで残された。
西方寺は1449(宝徳元)年に清海寺(西尾市吉良町津平)住持であった教然良頓(1390~1464)が、額田郡久保田村の「開章」と名付けた地に創建した、浄土宗西山深草派寺院である。宗教法人法による本末制度廃止までは「三河三檀林」の一つ、妙心寺の末寺であった。
本稿では一小寺院である西方寺に伝承が残された理由について、中世三河における深草派教団の歴史を紐解きながら探っていきたい。
三河地方で最初に建立された西山深草派寺院は、1272(文永9)年創建の栄善寺(豊川市長沢町)である。続いて松立寺(岡崎市夏山町)、観音寺(西尾市長縄町)など、幾つかの寺院が建立されたが、あくまで点的存在であり、深草派の広域展開につながるものではなかった。
面的な広がりの端緒は、浄俊妙意(生没年不明)が開山となった変相寺(1368~75年に創建)、教空龍芸(1362~1439)の法蔵寺(1385年に創建)、天祐光誉(1370~1478)の崇福寺(1394~1428年、もしくは1441年に創建)の3カ寺である。
変相寺は、占部一帯に影響力を持った地域豪族、野本正業(生没年不明)が浄俊に帰依し、別宅を提供したことで開創したと伝わる。廃寺となった時期は不明であるが、龍芸や光誉が留錫し、教然が剃髪受戒した重要な寺院であった。
法蔵寺は、円福寺(当時は京都、妙心寺との寺号交換により、現在は愛知県岡崎市)から三河に下った龍芸が、法相宗出世寺を深草派法蔵寺に改宗して「浄土宗学場」を建立したことで開創となった。開山した龍芸を外護したのは足利将軍家もしくは政所執事伊勢氏と考えられている。後に龍芸の弟子たちが西三河各地に広がり、初期三河深草教団の教線の拡大に寄与した。
崇福寺は、光誉に帰依した中嶋城主由良光家が、領地内にあった天台宗昌泰寺を改宗させ、光誉を住持に迎えて創建した。播磨国守護赤松氏出身の光誉は、1441(嘉吉元)年に起こった嘉吉の乱により、京都や播磨に居ることが難しくなり、三河に下向したとも伝わる。龍芸同様、京都との太いパイプを持つ光誉は、教線を拡大したい三河の深草派教団にとって、重要な存在であったものと考えられる。
1385年に法蔵寺が創建されて以降、妙心寺が創建される1461(寛正2)年までの間、三河では25の深草派寺院が創建されている。創建された寺院のうち、特に、光誉が三河へ下向したと伝わる1441年以前に創建された寺院は、龍芸門下が創建に関係した可能性が高い。当然ながら、創建に当たっては、変相寺・法蔵寺・崇福寺と同様、各地域の有力者が外護者となったことは想像に難くない。ただ、各寺の創建伝承には外護者について触れている事例が非常に少なく、1401(応永8)年創建の不退院(徳永義雄)、応永年間創建の桂岩寺(伝・戸崎義宗:創建当時の地域領主は戸崎氏ではなく荒川氏)程度である。
さて、三河浄土宗教団と地域権力者との関係に着目し、地域史として研究を進めたのは故新行紀一氏(愛知教育大名誉教授)である。残念ながら、史料の制約等もあり、地域史研究としての三河浄土宗教団の研究は、新行氏以降、進んではない。しかしながら、『深草史』のような寺伝がまとめられた刊行物や『寺院に関する調査(愛知県教育史編集部)』などのこれまでも用いられていた刊行物に加えて、現在行われている地域史調査の進展から、外護者に関しては次のような可能性を提示することができる。