宗教2世問題を考える(2/2ページ)
天理大おやさと研究所教授 金子昭氏
新宗教も既成教団化することで、伝統仏教と同じように「家の宗教」化する傾向にある。新宗教では、戦後に成立した教団でも宗教3世以上、幕末維新期の成立になる教団では宗教4世~5世以上を経過している。伝統仏教の寺院や檀信徒に至っては、宗教10世以上のところも少なくない。その意味で信仰継承の問題は普遍的である。現代の急速な社会変化の中での「家の宗教」化であるがゆえに、新宗教教団の場合は問題がより先鋭化されやすいだけで、同じことは伝統仏教にも言えるのである。
多くの宗教教団では、寺院・教会子弟をいかに育成して後継させるか、また檀信徒家庭での信仰の世代間継承をどうするか、真摯に取り組んできた。しかし、その取り組みは上から目線のきらいがあった。
教団付置研究所懇話会でも何度か年次大会テーマに挙げられたが、いずれも育成する教師の立場からのもので、育成される側への配慮の視点は希薄だったというのが正直な印象である。だが、その中で形成された経験知があるはずだ。試行錯誤や失敗例も含め、そうした経験知を炙り出していくと、有益な指針を打ち出すことができるだろう。
浄土真宗本願寺派では最近、「伝える伝道」から「伝わる伝道」への本質的転換を掲げたプロジェクトを開始した。天理教にも「集める理」より「集まる理」が大切という言葉がある。良き教えであれば、自ずと伝わり、そこに人々も寄り集うものだ。伝統仏教、新宗教も、ともに発想の転換を図らなくてはならない。私は宗教2世問題に注目して4点指摘し、合わせて提案もしたいと思う。
第1に、教団の指導者や教師の側が檀信徒の家庭に対して何の気なしに言う言葉、例えば家族全員で信仰しましょう、家族揃って参拝しましょうという一言がある。言われた親が仮にうまく子供に信仰を伝えられないと、自責感情に襲われたり、子供に対してきつく当たったりする。親から言われた子供のほうも、親との関係の中で心理的葛藤へと追い込まれる。
子供にとっては家庭が生活の全てだから、親孝行などと絡められて説かれると、出口の無い絶望感に陥りやすい。指導的立場にある者は、何の気なしにそういう科白が、時として極めて無神経に響くことにまず気付くべきだ。
第2に、信仰継承というのは本来、信仰する親の後ろ姿を見て自発的に行われるものであるが、本人の自発性・主体性を伴わない信仰継承の強要は時としてスピリチュアルアビューズ行為となり得る。その結果、家族の団欒どころか、家庭の機能不全をもたらし、子供が成長しても心に葛藤や絶望感を抱え、対人関係に様々な支障をきたすことになってしまう。
これはまさにアダルトチルドレンの症状であり、悩める宗教2世はまさにアダルトチルドレンの姿そのものである。宗教教団が次世代への伝道のために家庭を信仰的に囲い込もうとする時、そのような危うさが生じてしまう。この危うさの自覚こそ、宗教者の側に常に求められるのである。
第3に、宗教者が改めて確認すべきは神仏に対する正しい姿勢である。神仏は真理の原液であり、それはどんな薬が毒にもなるのと同じ意味で、処方を間違えれば生身の人間に対して救いの反対のものをもたらし得る。信仰熱心な親が「毒親」となってしまわないためにも、教団の指導的立場の者は、親が信仰という名の下に子供を支配し、家庭を管理するということになっていないか、たえず留意していかなくてはならない。
第4に、宗教者は絶対的存在ではない。生身の人間として自らも悩み苦しみ、自他の救いを求める存在である。宗教者の務めは、良き媒介者として、悩める人々の内側からの声を神仏へと聞き届けるように仕向けることにある。この声が神仏に届いたと自覚できた時に、人は神仏との本当の関係を持てるようになる。
教団の指導者層、また教師や親は、良かれと思って子供を神仏の方に向けさせるよう、つい無理強いしてしまいがちだ。でも、そこには神仏の威を借りたおごりはないだろうか。実のところ、神仏はもう初めから人間の方を向いて存在しているのである。