十種神宝の発生と『先代旧事本紀』の成立(2/2ページ)
編集者・ライター 古川順弘氏
すると、記紀にみられるニギハヤヒの神宝伝承(記の天津瑞、紀の天羽羽矢・歩靫)は『先代旧事本紀』の十種神宝説話の原型なのではないか、という推測が成り立つ。言い換えるなら、これらの神宝が歴史的に実在したかどうかはともかく、記紀の神宝伝承を発展させる形で『先代旧事本紀』の十種神宝説話が形成されたのではないか、ということである。
しかし私は、十種神宝には、『古事記』の天津瑞と『日本書紀』の天羽羽矢・歩靫の他に、もう一つ大きな要素が包含されていると考えている。それは「アメノヒボコの神宝」である。
「アメノヒボコの神宝」は、朝鮮半島の新羅から渡来した伝説的人物アメノヒボコが将来したと伝えられる7個または8個からなる神宝のことで、その伝承は『古事記』の応神天皇段、『日本書紀』の垂仁天皇3年3月条、同88年7月10日条に記されている。その神宝は、『日本書紀』によれば、羽太玉・足高玉・鵜鹿鹿赤石玉・出石小刀・出石桙・日鏡・熊神籬から成る。
そして『日本書紀』垂仁天皇88年7月10日条によると、「アメノヒボコの神宝」は「神府」に納められた。この神府は、文脈からすると石上神宮の神庫のことと考えられる。
ここで十種神宝と「アメノヒボコの神宝」を比較してみると、興味深い共通点に気づく。一つは神宝の構成で、両者とも鏡・剣(刀)・玉・比礼を含んでいる。もう一つは、両者がともに石上神宮に納められたとされる点である。
「アメノヒボコの神宝」伝承は8世紀初頭までに成立した記紀に明記されている。また、アメノヒボコに関する伝承は『播磨国風土記』(715年頃成立)や『古語拾遺』(807年成立)『新撰姓氏録』(815年成立)にあり、『摂津国風土記』逸文・『筑前国風土記』逸文にも関連伝承を見出すことができる。これらのことは、アメノヒボコ伝承がかなり古くから存在し、アメノヒボコまたはそのモデルにあたる人物がかつて実在していた可能性を示す。さらには、「アメノヒボコの神宝」が、その具体的な中身は措くとして、架空のものではなく、現実に存在したものであった可能性も十分にあると考えることもできる。つまり、石上神宮に実際に「アメノヒボコの神宝」が納められていた可能性がある。
それに対して十種神宝はどうか。文献上の初出は『先代旧事本紀』であり、その成立年代は、前述したように807年~869年と推定される。記紀にはニギハヤヒにまつわる神宝は言及されるが、その中身は十種神宝とはかなり隔たりがある。もちろん『風土記』や『古語拾遺』には十種神宝のことは言及されない。
これらのことから、「『アメノヒボコの神宝』伝承は十種神宝説話に先行して成立していたのであり、十種神宝説話は『アメノヒボコの神宝』伝承がもとになって9世紀前半に発生した」という推測が成り立つ。すなわち、十種神宝とは「アメノヒボコの神宝」をモデルに平安時代初期に醸成された伝説ではないか、ということである。
これらのことを踏まえ、私は以下のような仮説を立てている。
十種神宝説話は、物部氏に古くから伝承されていたものではない。おそらく9世紀前半に、物部氏の後裔である石上氏もしくは石上神宮祭祀の実務を担当した布留氏の人物が、物部氏や石上神宮の顕彰のために、記紀のニギハヤヒ神宝伝承と「アメノヒボコの神宝」伝承に材をとって創案したものであった。そして、この説話を明示し、流布させ、かつそれが古くからの伝承であるように見せることを主たる目的として、9世紀半ば頃、石上氏もしくは布留氏の人物によって編まれたのが、『先代旧事本紀』であった。
十種神宝の原像が「アメノヒボコの神宝」であったとするならば、十種神宝伝承に由来する祭祀や祈禱には、渡来系の宗教・文化の要素が含まれていることになるのではないか。東アジア全体を視野に入れて改めて神道をとらえ直す作業が求められよう。
なお、本稿は第18回涙骨賞応募論文「十種神宝の発生と『先代旧事本紀』の成立」の要約である。同論は受賞に至らなかったが、選考委員会の推薦を受けて要約をここに掲載させていただくことになった。ただし、要約ゆえに細かな論証は省かざるを得なかったことをお断りしておく。