「死後」についての近代知(2/2ページ)
筑波大元教授 津城寛文氏
二つめの「事実」の身分について、今回の著書では、現代の科学論に大きな影響を与えているブルーノ・ラトゥールの議論を換骨奪胎して、ラトゥールに近代スピリチュアリズム、心霊研究を語らせてみた。たとえばラトゥールは、成り行き上「心理学」と「超心理学」とを対比した上で、人類学は両方を対称的に扱うことができなかったと述べているが、このあたりは、心霊研究が近代的な学知になりそこなった経緯のわかりやすい説明になっている。
またこれをあと一歩進めると、超心理学(とその前身である心霊研究)は、心理学と同じ対称的な扱いを要求できると言わなければならない。そのために、科学は「厳然たる事実」に安易に自己限定せず、心霊研究などのもたらす「議論を呼ぶ事実」をも対称的に扱うべきであるという展望を引き出すことができる。
ラトゥールが「事実は作られる」と言うのは、実験や記録や証言や制度など、さまざまなアクターがネットワークを成すことで「事実」としての身分が獲得されるということで、「構築説」に似ているが、人為的な社会現象はともかく、「微生物」や「プラズマ」まで、人間がゼロから作り出すわけではない。それらは無限定なものが特定の「(初期)設定」によって「検出」され、そうして世界が特殊なやり方で「分節」されたにすぎない。「天文学的な無知」に囲まれた中で、「設定」を変えて別のものが「検出」され、未分化のモノがわずかずつ射程に入ってくることで、世界は別様に「分節」され、こうして知の地平が拡大していくことになる。
心霊研究が扱ったエビデンスの評価についても、「厳然たる事実」と「議論を呼ぶ事実」の度合いに対応するような、きめ細かい設定変更を行うことで、見え方は異なってくる。たとえば、心霊現象のうち物理的なもの(テーブルが持ち上がる、物品が出現するなど)について、現象自体が否定できなかった場合、「それに何の意味があるのか?」という揶揄があったり、「未知の力による」と良心的に棚上げされたり、「詐術」と断罪されたり、低級なものとして無視されたりしてきた。
しかし、死後存続のエビデンスとしては無意味そうな現象は、しばしば「あなたがスピリットであるとわかるようなエビデンスを、何か見せてくれ」という要請に応えて起こったものである。このような言葉によらない応答を、コミュニケーション行為として捉えなおすと、一見無意味なこのような物理現象が、死者のメッセージを伝えるもの、少なくともその始まりの「合図」として浮かびあがってくる。
本論をやや外れるが、今回の著書をまとめながら改めて痛感されたのは、重要文献の翻訳が適切になされていないという研究上の不作為である。翻訳のない文献は、専門外や一般読者には読まれない。リンカーン、ロバート・オーウェン、さらにはウィリアム・ジェイムズについてすら、近代スピリチュアリズム、心霊研究関係の長短の文献がほぼ翻訳されていないのは、異常な事態と言わねばならない。
ハーバード大学出版局から出ている『ウィリアム・ジェイムズ著作集』には、『心霊研究論文集』という大部の一巻があるが、そこに含まれるほぼすべてが未邦訳なのである。もう一つはこれよりさらに異常な事態で、ロバート・オーウェンの『自伝』日本語訳で、原著で最大限の言葉で強調されている冒頭の箇所が、「心霊主義」的すぎるという訳者の判断で削除され、日本語の読者にとっては「無きもの」となっている。基礎文献が流通しないことは、心霊研究とそれが対象とした近代スピリチュアリズムが「無きもの」とされてきたことの、もっとも見えやすい指標である。これは「政治的に公正」なことではない。
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『無きものとされた近代知――死者とのコミュニケーション』
アマゾンキンドル/ネクパブ・オーサーズプレス、2022年3月2日刊(電子版)。