公暁の読み方について(2/2ページ)
駒澤大専任講師 舘隆志氏
すなわち、公暁を僧侶として理解した上で、その時代の僧名としての読み方が必要となるのである。したがって、公顕と公胤の読み方を確定することができれば、公暁の読み方に一定の指針を与えられるのではと考えたのである。
まず公顕の読み方であるが、源通親の日記である『厳島御幸記』と『高倉院昇霞記』に記されている。この鎌倉中期の書写本が東京国立博物館(梅沢記念館旧蔵)に所蔵され、公顕僧正を『厳島御幸記』で「こうきむそう正」と、『高倉院昇霞記』で「こうきんそう正」と平仮名で表記している。「公」の呉音は「く」、漢音は「こう」なので、鎌倉時代の史料から、「こうけん」という漢音の読みであったのではないかという推定ができる。
次に公胤であるが、現存する親鸞真筆『西方指南抄』に「コウイン」と読みが付されていることによって確定することができる。公胤は法然の『選択集』に反論書『浄土決疑抄』を執筆し、それに対して法然がコメントを残したことが伝記史料に残されている。とすれば、それは法然が四国に、親鸞が越後に配流される前になり、親鸞は公胤のことを知っていることになる。したがって、「こういん」という読み方で確定し、漢音の読み方と考えられる。顕「けん」、胤「いん」はともに呉音漢音が同音であり、混在していた可能性も完全には否定できないものの、このような場合、通常は漢音読みの僧名と理解する。
以上のことを踏まえつつ、公暁の読み方を考えてみたい。まず、公暁には当時の史料に読み方が記されている例が確認できない。一方、江戸期以前に成立史料の写本や版本などに公暁の読み方が記される場合があるため、これを調査していきたい。
鎌倉期成立の『承久記』の写本のうち、前田尊経閣文庫所蔵『承久記』に「若宮乃別当公暁」の右に「べつたうこうせう」とあるが、そのもととなったとされる元和4(1618)年古活字版『承久記』(流布本)には読みは記されていない。『承久記』の異本のうち、天明2(1782)年書写の東京大学付属図書館所蔵『承久兵乱記』には「こうきょう」その右に「公暁」とある。また『承久軍物語』(群書類従所収本)には「こうげう」とあるが、『承久軍物語』の草稿本と考えられる内閣文庫所蔵本には、公暁「こうけう」と公卿「くぎゃう」とあり、濁点の有無が分けられている。
鎌倉時代成立の『吾妻鏡』には公暁の記事があるが、古写本には読みが記されておらず、刊本の寛永3(1626)年版において公暁に「クゲウ」とある。
南北朝成立の『増鏡』の刊本や写本にも「公暁」の読みが見られ、学習院大学所蔵本(1521年奥書)では「公」に読み方はなく「暁」に「きやう」とある。この他、慶長元和古活字版は「公暁」に「きんあきら」と訓読みである。しかも、いくつかの江戸期の写本を確認すると「くぎょう」「こうけう」「こうせう」「きんあきら」とあり定まっていない。
室町時代成立の『太平記』は、江戸期以前の古写本として西源院本(東京大学史料編纂所所蔵影写本)に「公暁」に「コウギョウ」とある。慶長15(1610)年版・延宝8(1680)年版が「公暁」に「クゲウ」、寛永元(1624)年版は「こうきょう」、寛永8(1631)年版と元禄11(1698)年版が「公暁」に「コウゲウ」とある。
上記を踏まえるならば、公暁の発音は伝承されていなかったのではないかと推定できる。そのため、「公顕―公胤―公暁」という系譜の漢音の読み方を踏まえ、「こうきょう」の漢音読みを基本とし、または「こうぎょう」と理解するのが自然と考えた。このような経緯から、自身の説にもかかわらず「こうきょう」と「こうぎょう」の2説が生じたのである。
結論とすれば、公暁は「くぎょう」とは読まないということである。2022年3月1日にNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の公式ホームページで、公暁を「こうぎょう」と読むことが発表された。あるいはこの日が、公暁の読み方の転換点になるのかもしれない。
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[参考文献]舘隆志「三井寺の公胤について(上)」『駒沢大学仏教学部論集』37、2006年・『園城寺公胤の研究』春秋社、2010年・「公暁の法名について」『印度学仏教学研究』61(1)、2012年・「栄西の法名について―えいさい・ようさいの発音」『曹洞宗総合研究センター学術大会紀要』15、2014年