僧坊の酒宴 ― 精進と酔狂の室町人たち(1/2ページ)
明星大准教授 芳澤元氏
2020年来、詩人ボッカチオの代表作『デカメロン(十日物語)』の話題をみかける。COVID―19にともなう緊急事態宣言、飲食店への営業時短申請などにより、テレワークや巣籠もりが優先されている現代と、ペストを避けて別荘で物語に耽る14世紀イタリアとを重ね合わせるのも無理もない。だが、同じ閉塞状況で作られた同書の内容は、笑いや激情に満ち、活気にあふれている。なかには修道士や聖職者と酒にまつわる逸話もある。
酒といえば、いまも醸造家や酒販店、消費者の心配事は、すぐに尽きそうもない。このような、政権や社会を巻き込んだ禁酒令は、歴史上たびたび登場した。明治時代に西本願寺の学徒が結成した反省会による禁酒運動、19世紀アメリカで広がったアルコール禁止キャンペーン。だが、どれもうまくいったためしはない。
どの話も、酒という文明の果実に対する人類の執着を裏打ちするが、日本では室町時代以降、醸造技術が革新されたといわれ、その中心は寺院だった。やがて、料理の世界に精進という概念が持ち込まれ、魚鳥食に対して独自の和食文化の実を結ぶ。例年なら新年会から歓送迎会のシーズン、このなまぐさい話を少しばかり見直してみよう。
喫茶文化に比べれば、中世寺社の飲酒や宴には、さほど光が当たることがなく、意外に思われることもある。だが、室町時代の記録をめくっていれば、僧侶が参加する宴席の多さには容易に気づく。専門的な酒文化の研究や、農学の醸造・発酵科学の分野では、中世寺院の飲酒への関心は皆無ではない。
中世の寺院社会で開かれた宴には、いくつかの特質がみられるが、その多くは、仏神事などの儀礼に関わる宴が主立っている。たとえば、顕密仏教の寺社では、得度して修学を重ねた僧侶が、やがて重要な法会に出仕し、その役を終えると昇進することになる。昇進を祝って酒飯の宴を開いた。これを悦酒という。天正17(1589)年に作られた「興福寺住侶寺役宗神擁護和讃」によれば、酒飯代を負担するのは周囲ではなく、昇進内定者が3日にわたって奢る決まりだった。
『今昔物語集』には、藤原利仁に誘われて越前国(福井県)に来た官人が、現地で1カ月も丁重な歓待を受け、帰り際に大量の引出物を贈られた話がみえる。芥川龍之介『芋粥』の題でも知られる説話だが、荘園領主の使者が現地に赴任した際、酒食や牛馬の提供を受け、最初の3日間に受ける接待を「三日厨」といった。同じことは、室町時代に東寺領の備中国(岡山県)新見荘に派遣された地頭代が、百姓らに歓待された例にみえる(『東寺百合文書』)。3日の悦酒も、こうした習慣を踏襲したものだろう。つまり、仏事や儀礼、検注にともなう饗応は、世俗社会の習わしに連動したものだったといえる。
こうして結束を重んじる寺院社会では、集団の意志を決定する集会・評定が重視されたが、主に顕密仏教の寺院では、評定や儀礼を無断欠勤した者に、科酒の負担を求めた。応安元(1368)年の東大寺では、寺僧は毎月3回の集会に出席するべきなのに、勝手に休むこと3度におよべば、5人分の酒代を払う罰があった(『東大寺文書』)。河内金剛寺でも、定例の勤行を怠けると、清酒1瓶と濁酒2瓶を負担する決まりだった(『金剛寺文書』)。
このような、罰則としての科酒規則が評定で公然と決定されるのは、顕密寺院にみられる傾向で、禅院・律院・真宗寺院には確認できない。