《新年座談会④》コロナ後、社会・宗教どう変わる?― 贈与としての言葉、宗教者に必要(2/2ページ)
安藤礼二氏
中島岳志氏
釈徹宗氏
ポーリン・ボスという人の「あいまいな喪失」という議論があります。大きな災害などで突然、人がいなくなるとあいまいな喪失が起きる。いるのかいないのか分からないし、いなくなったという実感もない。コロナで葬儀をされなかった方がたくさん出てきて、死者になっていくプロセスが断絶されてしまった。アガンベンはそれを「死者の権利が奪われた」と言いますが、あいまいな喪失という問題がこの1、2年大量発生しているのだと思います。
コロナ以外で亡くなられ、ご葬儀できなかった方も多いので、ここを取り戻さないと未来の他者との対話ができなくなる。もう一度仏事を再構築しないといけない。これがないと未来の他者との対話も憲法もおかしくなると政治学者として思っています。
安藤 民俗学の分野では未来の他者、過去の他者は折口が見いだした「まれびと」の概念がぴったり当てはまります。ユネスコに登録された「仮面来訪神」の原形のようなものです。
仮面来訪神は人間か動物か神聖なものかよく分からない、全身に草をまとい怪異な仮面を着けた巨大な神が1年に1度、現れてくる。それこそが祖先なのです。地の底が祖先たちの国につながっていてそこから現れる。そしてコミュニティーに祝福と、コミュニティーの秩序を乱す人間に脅威を与える。死んでしまった祖先を自分の身体を介して蘇らせる。そしてそれを未来につなげていくのですね。
祖先になる人間は毎年代わりますが、重要なのは生身の人間ではなく仮面なのです。仮面に聖なる洞窟の奥から湧き出る聖なる水をかけると蛇が脱皮するように蘇るらしいのです。過去の死者が今ここに蘇ってきて生者と共に一晩過ごし、また祖先たちの国に帰っていく。その営為が毎年繰り返される。中島さんのおっしゃる仏事と、祝祭が果たす機能がパラレルになっています。
これが沖縄はじめ日本列島の各地、中央の統制力が弱い辺境に残されている。過去と未来が祝祭を通じて一つにつながり合うわけですね。祭りは人に見せるためではなく、自分たちが参加するものです。近代はスペクタクルの世界になり、祭りの本義とはかなり違ったものが祭りと呼ばれています。本来はコミュニティーを活性化するための自分たちの祭りが、他人にどう見られるかという完全なショーになってしまっている。
日本は仏教と神道が併存していて、決まった祝祭や行事を通して過去からの絆、未来への絆が確認されていく。それを蘇らせようと柳田、折口ら民俗学の人間たちと大拙、西田ら仏教学の人間たちがやってきたことがどこかでクロスします。それは最澄と空海のクロス、内在と超越のクロスでもある。そして生者と死者、過去と未来がクロスし、次のステージへ進むのかなと思います。(つづく)