《新年座談会③》コロナ後、社会・宗教どう変わる?― 死者の権利、取り戻せ(2/2ページ)
安藤礼二氏
中島岳志氏
釈徹宗氏
「いつの間に宗教学者になったの」と言われますが、政治学者として万感の思いを込め「僧侶方には仏事を頑張っていただきたい」と申し上げています。死者との出会い直しを組み立ててきたのが日本で深い伝統を持つ仏教だからで、葬儀にしろ初七日、四十九日、三回忌にしろ、死者とどういう関係を紡ぐのかの型があったわけです。私たちは死者との出会い直しの場をどんどん失っている。これは民主制の問題につながるのではないか。いま民主主義がおかしくなっているとすると、死者との出会い直しに対するモメントが失われているからではないかと思います。
釈 今のお話を受けて安藤さんいかがですか。
安藤 生きている人間を最優先して考えることが、今の政治のスピードや生きている人間に役に立つことしかしないという流れになっていると思います。コロナを死者の問題としてどう考えていくのか、仏教が非常に重要であるという中島さんのご意見に同感です。
日本仏教には同時代に生まれた空海と最澄の二つの大きな流れがあり、空海は内在の思想家、最澄は超越の思想家だと考えます。いま生きている人間は全てつながり合うという空海の哲学、宗教は生者のためのものではないでしょうか。空海は大きな可能性を持つ素晴らしい思想家ですが、空海の哲学だけをそのまま進めていくと、他者に対する思考がなかなか出てこない気がするのです。
それに対し最澄(天台宗)は法華経を重んじ、禅と浄土も含めてはるか彼方の他者に対する一つの大きな思想を作ったと思います。法華経は未来に仏になれるからそれを目指すという、大変遠いのですが未来を志向していますし、極楽浄土ははるか彼方の世界です。彼方の世界があるから現実をもう一回、別の視点で考えることができる。禅もそれに近く、今の現実を「空」として超えていくようなところがある。空海の「空」というのはいろいろなものが生まれてくる母胎のような空ですね。どちらかでは駄目で、どちらも必要だと思うのです。
奈良時代に都を移さなければならないほど大きな疫病がはやり、聖武天皇が東大寺という華厳を柱とした寺を建てる。華厳は人間だけを見ているのではなく、森羅万象あらゆるもののつながりを説きますね。内在性を徹底的に突き詰めて生者たちの間に関係性をもたらす空海の密教的な考え方と、非常に遠い他者、死者、極楽浄土という現実とは異なった世界、法華経の未来主義という超越性。この二つの大きな方向を奈良の時代が生んでくれたと思います。
100年前に起こったことは、内在性と超越性の問い直しではなかったか。「生者の民主主義」「死者の民主主義」と同時に「内在の仏教」と「超越の仏教」。これらを重ね合わせるように考えると、次の時代を生きるヒントが生まれるのではないかと今までの話をお聞きして考えました。
中島 同感です。空海は高野山の奥之院にまだ生きているといいます。死ねないのは大変だなと思うのですね。生者の内在性で森羅万象と一体化するという世界を私は怖がって敬遠してきたのですが、それはインドに長くいた経験からです。特にヒンドゥー・ナショナリズムというヒンドゥー教の過激派の研究をしていましたから、これが政治共同体と結び付いたときの危うさ、全体主義的な動きの怖さがあったのですね。
それに対し日本仏教では如来蔵といいながらも親鸞はここに対して警戒心の強い人でした。生きている人間、凡夫がそう簡単に如来になれないぞと。どうしようもない人間を深いレベルで見つめ、無力に立った時にこそ他力の力がやってくると言ったぎりぎりの思想家だと思って、私は親鸞を大切にしてきました。超越性の極北を私は親鸞として、もう一つの内在の極北が空海。日本仏教はこの二人のスターがある種の論理を作っていると考えています。
安藤 これまではどうしても空海か、最澄もしくは親鸞かでした。最澄が持っている超越性の思想を極北にまでもたらしたのは親鸞だと思います。しかしどちらにも危険性があって、超越だけでも例えば法華経ファシズムが生み出されました。どちらにもアナーキズム、ファシズムの可能性があるといえます。二つの思想、日本に伝来して定着した仏教の最大の財産を今後どう使っていくかが問われていると思います。仏教だけでなく、民俗学や神道にも並行する問題でしょう。(つづく)