贈与と救済 ―「受け取る」存在としての人間(2/2ページ)
関東神学ゼミナール講師 大川大地氏
古今東西を問わず、人は理由なしに奉納物を捧げるのではなく、多くの場合に超越的存在からの何らかの「見返り」を期待しつつ捧げるのである。つまり祭儀において、人間と神(々)は、「奉納物」と「ご利益」を交換している。ここで言う「ご利益」は、物的、身体的、社会的、精神的な恩恵のことであり、災いが下されないという意味での「加護」も含まれる。あるいはそのような「ご利益」へのお返しとして人間が「奉納物」を神々に与える場合もある。
H・-J・クラウクという学者が、ギリシア・ローマの宗教祭儀を解説する際に、人間が神々に何かを奉納することによって神々に対して「交換条件を提示している」と言うのはこの意味である(『初期キリスト教の宗教的背景』)。従って、当時のギリシア・ローマ世界において(現代世界でも)、祭儀において成立しているのはdo ut des(私が与えるのは、あなたが私に与えるからだ)というラテン語の慣用句通りの「交換」の関係である。神(々)からの「ご利益」は基本的に「贈り物」として「無償で」人間に与えられるのではない。
このような宗教的背景を考えるとき、「無償で」を強調するパウロの救済論がいかに「常識外れ」なものであるかがよく分かるのと同時に、それが持つ大きな可能性にも気がつく。「ご利益」が見返りとして神(々)から人間に与えられるものである以上、それを願った、あるいはそれに対する返礼としての奉納物は人間が用意するものでなければならない。ところがパウロは、「神がこのキリストを……供え物となさいました」と言う。ここで神は、本来自分に捧げられるべき奉納物を自ら用意したというのである。人間は何もしていない。ここに成立しているのは交換ではなく、神から人間への一方的な贈与である。人間は交換の主体として神に何かを「与える」ことができず、ただ神から「受け取る」他ない存在だ。
このことは言い換えれば、人間が救済としての義認と交換可能な何らかの価値(モノ・能力)を一切有していないということである。パウロによれば、そもそも人間は、例外なく神の救済にふさわしくない。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」。従って、もし神と人間の関係が「交換」によって特徴づけられるのであれば、神の側には人間を救うべき合理的な理由など一切ない。交換にふさわしくない者に何かを与えたところで、自身に返ってくる見返りを期待できないからである。しかし、それにもかかわらず、いや、それ故に、とパウロは続ける。神はまさに贈り物にふさわしくない人間に対して「贈与」するのだ、と。ここで「義しい」と認められているのは、何かを「与える」能力を有した人間、つまり何らかの交換価値を有した人間ではなく、何かを「受け取る」他ない存在としての人間である。そのような人間の受動性をこそ神は肯定する。
昨年、若手の哲学者・近内悠太の書いた『世界は贈与でできている』(NewsPicks)が話題になった。単なる推測だが、この本が話題になったのは、昨年から続くコロナ禍で、交換を前提に成立する資本主義経済が大打撃を受けたことと決して無関係ではないように思う。多くの人が交換できるもの(金銭や、労働など能力を発揮する機会)を失い、困窮し続けている。近内は次のように警鐘を鳴らす。「贈与を失った社会では、誰かに向かって『助けて』と乞うことが原理的にできなくなる」と。経済的困窮が広く日常になってしまい、多くの人が他者からの何らかの贈与を「受け取」らなければ生活が成り立たないコロナ禍において、宗教が社会に「贈る」ことのできるもののひとつは、「受け取る」存在としての人間にこそ価値があるというメッセージではないだろうか。
私たちはいかに多くの交換可能な価値を有するかで人間を評価することに慣れきってしまっているが、贈与を受け取り生かされる人間の受動性が今こそ肯定されるべきでないか。実際、「マタイによる福音書」に記されたイエスの言葉は、受け取る存在であることを想起するときに、人間が交換の循環から脱し、他者に贈与できる存在へと変わることのできる可能性を示している――「〔君たちは神から〕ただで受けたのだから、〔人に〕ただで与えなさい」(10章8節)。